国枝史郎「弓道中祖伝」(01) (きゅうどうちゅうそでん)

国枝史郎「弓道中祖伝」(01)



「宿をお求めではござらぬかな、もし宿をお求めなら、よい宿をお世話《せわ》いたしましょう」
 こう云って声をかけたのは、六十歳ぐらいの老人で、眼の鋭い唇の薄い、頬のこけた顔を持っていた。それでいて不思議に品位があった。
「さよう宿を求めて居ります。よい宿がござらばお世話下され」
 こう云って足を止めたのは、三十二三の若い武士で、旅装いに身をかためていた。くくり袴、武者草鞋《わらじ》、右の肩から左の脇へ、包を斜《ななめ》に背負《しょ》っていた。手には鉄扇をたずさえている。深く編笠をかむっているので、その容貌は解《わか》らなかったが、体に品もあれば威もあった。武術か兵法かそういうものを、諸国を巡って達人に従《つ》き、極めようとしている遊歴武士、――といったような姿であった。
「よろしいそれではお世話しましょう。ここは京の室町《むろまち》で、これを南へ執《と》って行けば、今出《いまで》川の通りへ出る。そこを今度は東へ参る。すると北小路《こうじ》の通りへ出る。それを出はずれると管領《かんりょう》ヶ原で、その原の一所に館がござる。その館へ参ってお泊りなされ。和田の翁より承《うけたま》わったと、このように申せば喜んで泊めよう。さあさあおいで、行ってお泊り」
 云いすてると老人は腰を延ばし、突いていた寒竹《かんちく》の鞭のような杖を、振るようにして歩み去った。
 若い武士は唖然としたようであった。
 時は文明《ぶんめい》五年であり、応仁の大乱が始まって以来、七年を経た時であり、京都の町々は兵火にかかり、その大半は烏有《うゆう》に帰し、残った家々も大破し、没落し、旅舎というようなものもなく、有ってもみすぼらしいものであった。若武士が京の町へ足を入れたのは、たった今しがたのことであり、時刻はすでに夕暮であり、事実さっきからよい宿はないかと、それとなく探していたところであった。で、老人に呼び止められ、今のように宿を世話されたことは、有難いことには相違なかったが、それにしても老人の世話のしかたが、あまりにも唐突であったので、そこで唖然としたのであった。唖然としたが、それがために、老人の好意を無にしたり、老人の言葉を疑うような、そんな卑屈な量見を、その若武士は持っていないと見えて、云われたままの道を辿り、云われたままの館の前に立った。
 さてここは館の前である。
 もうこの時は初夜であって、遅い月はまだ出ていなかった。
 で、細かい館の様子は、ほとんど見ることが出来なかったが、桧皮葺《ひはだぶき》の門は傾き、門内に植えられた樹木の枝葉が、森のように繁っていた。取り廻された築地《ついじ》も崩れ、犬など自由に出入り出来そうであった。旅宿といったような造りではなかった。
(これは変だな)と思ったものの、そのことがかえって若い武士の、好奇の心をそそったらしく、立ち去らせる代わりに門を叩かせた。
 と、叩いた手に連れて、門が自ずと少し開いた。
(不用心のことだ)と思いながら、若武士は門内へ入って行った。鬱々と繁っている庭木の奥に、いかめしい書院造りの館が立っていた。桁行《けたゆき》二十間、梁間《はりま》十五間、切妻造り、柿葺《こけらぶき》の、格に嵌まった堂々たる館で、まさしく貴族の住居であるべく、誰の眼にも見て取れた。しかし凄じいまでに荒れていて、階段まで雑草が延びていた。
 森閑《しん》として人気もない。勿論燈火《ともしび》も洩れて来ない。何となく鬼気さえ催すのであった。しかし応仁の大乱は、京都の市街を戦場とした、市街戦であったので、この種の荒れ果てた館などは、どこへ行っても数多くあり、珍しいものではなかったので、若武士は躊躇しなかった。
「ご免下され、お取次頼む」
 こう高声で呼《よば》わった。が、返辞は来なかった。そこで若武士はさらに呼んだ。三度四度呼んで見た。が、依然として返辞はなかった。
「やれやれ」と若武士は呟《つぶや》いた。
「これはどうやら無住の館らしい。とするとどうしてあの老人は、こんな所を世話したのであろう?」
 これからどうしようかと考えた。足も疲労《つかれ》ていたし気も疲労ていた。で、無住の館なら、誰にも遠慮することもない。ともかくもしばらく休息して行こう。こう考えて玄関を上った。二ノ間一ノ間を打ち通り、奥の間へ来て佇んだ。燈火のない屋内は、ひたすらに暗く何も見えなかった。
 そこで若武士は膝を揃えて坐った。疲労た足を癒すには、端坐するのがよいからであった。



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