国枝史郎「弓道中祖伝」(02) (きゅうどうちゅうそでん)

国枝史郎「弓道中祖伝」(02)



 こうしてしばらく時が経った。と、その時裏庭の方から、清らかな若い女の声で、今様めいた歌をうたう、歌の声が聞こえてきた。
(はてな?)と若武士は耳を澄ました。
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※[#歌記号、1-3-28]荒れし都の古館、見れば昔ぞ忍ばるる、蓬《よもぎ》が原に露しげく、啼くは鶉《うずら》か憐れなり
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 それはこういう歌であった。若武士は当然意外に感じた。
(このような荒れ果てた館の庭で、歌をうたう女があろうとは? さては無住ではなかったのか?)
 で若武士は立ち上り、部屋を出て縁へ立った。星明りの下に見えたのは、荒れた館にふさわしく、これも荒れ果てた裏庭で、雑草は延びて丈《じょう》にも達し、庭木は形もしどろ[#「しどろ」に傍点]に繁って、自然の姿を呈して居り、昔は数奇を谷《きわ》めたらしい、築山、泉水、石橋、亭、そういうものは布置においてこそ、造庭術の蘊奥《うんおう》を谷めて、在る所に厳として存在していたが、しかしいずれも壊れ損じ、いたましい態《ざま》を見せていた。
 と、白衣《びゃくえ》の丈の高い女が、水のない泉水の岸のほとりを、築山の方へ歩いていた。
(あれだな)と若武士は突嗟に思い、少しはしたなく[#「はしたなく」に傍点]は思ったが、そこに穿物《はきもの》がなかったので、跣足《はだし》のままで庭へ下り、驚かせたら逃げるかもしれない、こう何となく思われたので、物の陰から物の陰を伝い、女の方へ近寄って行った。しかし泉水の岸のほとりまで、その若武士が行った時には、女の姿は見えなかった。
(築山《つきやま》の向こうへでも行ったのであろうか)と思って若武士は先へ進んだ。
 と、突然老人の声が、築山の方から聞こえてきた。
「参るぞーッ」という声であった。
 途端に烈しい弦音《つるおと》がした。
「うん!」
 気合だ! 気合をかけて、若武士は持っていた鉄扇で、空をパッと一揮した。足下《あしもと》に落ちたものがある。平題《いたつき》の箭《や》であった。
「お見事!」と女の声が聞こえた。築山の方から聞こえたのである。
 と、又老人の声がした。
「もう一條《ひとすじ》参る、受けて見られい」
 ふたたび烈しい弦音がした。
「うん」と全く同じ気合だ。気合をかけて若武士は、またも鉄扇を一揮した。連れて箭が足下へ叩き落とされた。
「お見事」と又も女の声がし、すぐに続いて問いかけた。
「弓箭《きゅうぜん》の根元ご存知でござるか?」
「弓箭の根元は神代にござる」
 言下に若武士はそう答えた。
「根《ね》の国に赴きたまわんとして素盞嗚尊《すさのおのみこと》[#「素盞嗚尊」は底本では「素盞鳴尊」]、まず天照大神《あまてらすおおみかみ》に、お別れ告げんと高天原《たかまがはら》に参る。大神、尊を疑わせられ、千入《ちいり》の靱《うつぼ》を負い、五百入《いおいり》の靱を附け、また臂に伊都之竹鞆《いつのたかとも》を取り佩《は》き、弓の腹を握り、振り立て振り立て立ち出で給うと、古事記に謹記まかりある。これ弓箭の根元でござる」
「さらに問い申す重籐《しげとう》の弓は?」
「誓って将帥の用うべき品」
「うむ、しからば塗籠籐《ぬりごめどう》は?」
「すなわち士卒の使う物」
「蒔絵《まきえ》弓は?」
「儀仗《ぎじょう》に用い」
「白木糸裏は?」
「軍陣に使用す」
「天晴《あっぱ》れ!」と女の清らかな声が、築山の方からまた聞こえてきた。
「お若いに似合わず技巧《わざ》ばかりでなく、学にも通じて居られますご様子、姓名をお聞かせ下されよ」
「伊賀の国の住人日置正次《へきまさつぐ》、弓道の奥義極めようものと、諸国遍歴いたし居るもの。……ご息女のお名前お聞かせ下され」
 すると代わって老人の声が、遮るように聞こえてきた。
「あいや、ご無用、まだ早うござる。……なるほど防身《うけみ》は確かでござる。が果たして射術の方は? ……両様の態《たい》定った暁、何も彼もお明しなさるがよろしい」
 ここでにわかに手を拍つ音が、田楽の節を帯びて聞こえてきた。
「天王寺《てんおうじ》の妖霊星《ようれいぼし》! 天王寺の妖霊星!」
「見たか見たか妖霊星!」
 女がそれに合わせて歌った。これも同じく手を拍っている。
「千早《ちはや》は落ちたか、あら悲しや」
「悲しや落ちた、情なや」
「天王寺の妖霊星!」
「妖霊星、妖霊星!」
 足拍子の音が聞こえてきた。
 しかし次第に遠退いた。踊りながら築山の奥の方へ、二人揃って行ったようであった。



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