国枝史郎「弓道中祖伝」(04) (きゅうどうちゅうそでん)

国枝史郎「弓道中祖伝」(04)



 調度掛にかけてある弓箭《きゅうぜん》を眺め、しばらく小首を傾けている、日置正次《へきまさつぐ》の耳へ大勢の人声が、裏庭の方から聞こえてきたのは、それから間もなくのことであった。
(はてな?)と正次は耳を澄ました。大勢の人間が裏門を押し開け、庭内へ入って来たようであった。
 不意に呼びかける声が聞こえてきた。
「お約束の日限と刻限とがただ今到来いたしてござる。恩地雉四郎お迎えに参った。いざ姫君お越し下され。お厭とあらば判官殿手写の『養由基《ようゆうき》』をお譲り下されよ!」
 濁みた兇暴の声であった。
 すると書院の次の間から、――すなわち一ノ間から老人の声が、嘲笑うようにそれに答えた。
「雉四郎殿か、お迎えご苦労! が、姫君には申して居られる、迎えにも応ぜず『養由基』もやらぬと。……雉四郎殿お立帰りなされ」
「黙れ!」と、雉四郎の怒声が聞こえた。
「それでは約束に背くというものだ」
「元々貴殿より姫君に対して、強請された難題でござる。背いたとて何の不義になろう」
「よろしい背け、がしかしだ、一旦思い込んだこの雉四郎、姫も奪うぞ『養由基』も取る! それだけの覚悟、ついて居ろうな!」
 すると老人の声が書院の方へ――正次の方へ呼びかけた。
「あいや客人、日置正次殿、我等必死のお願いでござる、貴殿の弓勢《ゆんぜい》お示し下され! 寄せて参ったは、不頼の輩《ともがら》、あばら組と申す奴原《やつばら》、討ち取って仔細無き奴原でござる!」
「応」と云うと日置正次は、調度掛にかけてある陽の弓、七尺五寸、叢重籐《むらしげどう》、その真中《まんなか》をムズと握り、白磨箆鳴鏑《しろみがきべらなりかぶら》の箭《や》を掴むと、襖をあけて縁へ出た。
「寄せて来られた方々に申す。拙者は旅の武士でござって、今宵この館に宿を求めた者、従って貴殿方に恩怨はござらぬ。又この館の人々とも、たいして恩も誼《よしみ》もござらぬ。がしかしながら見受けましたところ、貴殿方は大勢、しかのみならず、武器をたずさえて乱入された様子、しかるに館には婦人と老人、たった二人しかまかりあらぬ。しかも二人に頼まれてござる。味方するよう頼まれてござる。拙者も武士頼まれた以上、不甲斐なく後へは引けませぬ。……そこで箭一本参らせる。引かれればよし引かれぬとなら、次々に箭を参らせる」
 云い終わると箭筈《やはず》を弦に宛て、グーッとばかり引き絞った。狙いは衆人の先頭に立ち、槍を突き立て足を踏みひらき、鹿角打った冑をいただいている、その一党の頭目らしい――すなわち恩地雉四郎の、その冑の前立であった。弦ヲ控《ヒ》クニ二法アリ、無名指ト中指ニテ大指ヲ圧シ、指頭ヲ弦ノ直堅《チヨクケン》に当ツ! 之《コレ》ヲ中国ノ射法ト謂《イ》フ! 正次の射法はこれであった。満を持してしばらくもたせたが「曳《えい》!」という矢声! さながら裂帛! 同時に鷲鳥の嘯くような、鏑の鳴音響き渡ったが、源三位頼政《げんざんみよりまさ》鵺《ぬえ》を射つや、鳴笛《めいてき》紫宸殿《ししんでん》に充つとある、それにも劣らぬ凄まじい鳴音が、数町に響いて空を切った箭! 見よおりから空にかかった、遅い月に照らされて、見えていた恩地雉四郎の、鹿角の前立を中程から射切り、しかも箭勢《せんぜい》弱らずに、遥かあなたに巡らされている、築土の塀に突き刺さった。
 ド、ド、ド、ド――ッという足音がして、この弓勢《ゆんぜい》に胆を冷やした、あばら組三十五人は、一度に後へ退いた。が、さすがに雉四郎ばかりは、一党の頭目であったので、逃げもせず立ったまま大音を上げた。
「やあ汝出過者め、無縁とあらば事を好まず、穏しく控えて居ればよいに、このあばら組に楯衝いて、箭を射かけるとは命知らずめ、問答無益、出た杭は打ち、遮る雑草は刈取らねばならぬ! さあ方々おかえりなされ! 弓勢は確かに凄じくはござるが、狙いは未熟で恐るるところはござらぬ。冑の前立をかつかつ[#「かつかつ」に傍点]射落とし、眉間を外した技倆《うで》で知れる!」
 すると正次は嘲るように云った。
「雉四郎とやら愚千万、昔保元《ほうげん》の合戦において、鎮西《ちんぜい》八郎為朝《ためとも》公、兄なる義朝《よしとも》に弓は引いたが、兄なるが故に急所を避け、冑の星を射削りたる故事を、さてはご存知無いと見える。拙者先刻も申した通り、我と貴殿と恩怨ござらぬ、それゆえ故意《わざ》と眉間を外し、前立の鹿角を射落としたのでござるぞ。それとも察せずに只今の過言、狙いは未熟とは片腹痛し、おお可々《よしよし》ご所望ならば、二ノ箭にてお命いただこう。……参るゾーッ」と背後《うしろ》を振り返り、床の間にある調度掛の箭を、抜き取ろうとして手を延ばした。



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