国枝史郎「名人地獄」(098) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(098)

    因果応報悪人の死

 物語りは三月経過する。
 桜の花が咲き出した。春が江戸へ訪ずれて来た。この物語りの最初の日から、ちょうど一年が過ぎ去った。「今の世や猫も杓子《しゃくし》も花見笠」の、そういう麗かの陽気となった。隅田川には都鳥《みやこどり》が浮かび、梅若塚には菜の花が手向《たむ》けられ、竹屋の渡しでは船頭が、酔っぱらいながら棹《さお》さしていた。
 一閑斎の小梅の寮へは、相変らず人が寄って来た。ある日久しぶりで訪ねて来たのは、玻璃窓の郡上平八であった。
「これはこれは珍しい。それでも生きていたのかえ」「裾を見な、足があるから。へ、これでも幽霊じゃないのさ」皮肉な二老人は逢うと早々、双方で皮肉をいい合うのであった。「一局囲《かこ》もうかね、一年ぶりだ」「心得た。負かしてやろう」「きつい鼻息だ、悲鳴をあげるなよ」
 パチリパチリと打ち出した。最初の一局は一閑斎が勝ち、次の一局は平八が勝った。で一服《ぷく》ということになった。
「そこでちょっとおききするが、もう鼓賊はお手に入れたかな?」ニヤニヤ笑いながら一閑斎は訊いた。もちろんいやがらせの意味であった。
「うむ」といったが平八は、不快な顔もしなかった。「さよう実は捕えたがな、捕えてみれば我が子なり。……恩愛の糸がからまっていて、どうにもならなかったという訳さ」「へえ、本当に捕えたのか? ふうむ、どこで捕えたな?」「銚子だよ、去年の冬」「で、鼓賊の素性はえ?」「それだ」いうと平八は、会心の笑みを浮かべたが、「わしの眼力は狂わなかった。鼠小僧と同一人だった」「ふうん、そいつあほんとかね?」一閑斎は眼を見張った。
「嘘をいってなんになる。ほんとだよ、信じていい。……だがどうしてもショビケなかったのさ。しかしその時約束した。『天運尽きたと知った時は、わしの手から自首しろ』とな。『あっしの娑婆も永かあねえ。その時はきっと旦那の手で、送られることに致しましょう』こうあいつもいったものだ。それでおれは待ってるのさ。……ところでどうだこの二、三ヵ月、鼓賊の噂を聞かないだろうな?」「さようさよう、ちっとも聞かない」「それは鼓がこわれてしまって、もう用に立たないからだ。投げた拍子にこわれたのさ。そうしてそのためこのわしは、命びろいをしたというものさ。いや全く世の中は、なにが幸いになるか解りゃしない」感慨深そうに平八はいった。もちろんそれがどういう意味だか、一閑斎にはわからなかった。しかし平八は日頃から、嘘をいわない人物であった。で一閑斎は平八の言葉を、是認せざるを得なかった。
 そこへ下男の八蔵が、眼の色を変えて飛んで来た。「旦那様、大変でございますよ。あの綺麗な浪人の内儀が、しごきを梁《はり》へ引っかけて、縊《くび》れているじゃありませんか」
「おっ、ほんとか、そりゃあ大変だ!」一閑斎は仰天した。
「郡上氏、行ってみましょう」あわてて庭下駄を突っかけた。二人がその家へ行った時には、見物が黒山のようにたかっていた。病《や》みほうけても美しい。油屋お北の死骸《なきがら》は、赤いしごきを首に纏《まと》い、なるほど梁《はり》から下がっていた。
 壁に無数の落書きがあった。「ゆるしてください。恐ろしい」「馬子甚三」「信濃追分」「南無幽霊頓証菩提」「もう、わたしは生きてはいられない」「あの人、あの人、あの人、あの人」
 意味のわからない落書きであった。
 検死の結果は自害となった。乱心して死んだということになった。ただしどうして乱心したかは、誰も知ることは出来なかった。
「春になると自殺者が多い」平八は憮然として呟いた。
「いい女だったのに惜しいことをした」こういって一閑斎は苦笑したが、「亭主の浪人はどうしたかな?」
 その浪人は殺されていた。それの解ったのは翌朝のことで、隅田堤の桜の幹へ、五寸釘の手裏剣で、両眼と咽喉《のど》とを縫いつけられていた。
 奇抜といおうか惨酷といおうか、その不思議な殺され方は、江戸市中の評判となった。
「いったい誰が殺したのだろう?」人々はこういって噂した。
 もちろん甚内が殺したのであった。兄の敵の富士甚内を、浅間甚内が殺したのであった。





[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送