国枝史郎「名人地獄」(010) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(10)

    襖を開けた商人客

「なんだつまらない、それがどうしたえ」
「聞けば貴公のご親父《しんぷ》は、宗家当主の兄君だそうだが?」
「ああそうさ、それがどうしたな」
「宗家と貴公とは伯父甥ではないか」「うん、そうだ、伯父甥だよ」「宗家は病身だということだが」「まず余り永くはないな」「そこで貴公を養子として、楽頭職《がくとうしょく》を継がせるというのが、世間もっぱらの評判だ」「世間は案外物識りだな。ああいかにもその通りだよ」
「とすると貴公は観世家にとっては、大事な大事な公達《きんだち》ではないか」
「……公達にきつね化けけり宵の春か……やはり蕪村はうまいなあ」銀之丞はひょいと横へ反《そ》らせた。
「何んだ俳句か、つがもねえ[#「つがもねえ」に傍点]」造酒もとうとう笑い出したが、「真面目《まじめ》に聞きな、悪いことはいわぬ」
「といってあんまりいいこともいわぬ……とこう云うと地口になるかな」
「それそいつがよくない洒落《しゃれ》だ。かりにも観世の御曹司《おんぞうし》が、地口を語るとは不似合だな」
「それ不似合、やれ不面目、家名にかかわる、芸の名折れ、どっちを向いてもアイタシコ。そいつがきつい[#「きつい」に傍点]嫌いでな」「ナール」と造酒はそれを聞くと、ちょっと胸に落ちたらしく、「つまり窮屈が厭なのだな。鬱《ふさ》ぎの虫の原因も、基《もと》をただせばそいつだな」
「やさしくいえばまずそうだ」「ほかにも原因があるのかえ」「万事万端皆癪《しゃく》だ」「大きく出たな。これはかなわぬ」「今の浮世の有様《ありさま》は、いって見れば蓋をした釜だ。人を窒息させようとする」「おれにははっきり解らないが」「世の縄墨《じょうぼく》に背《そむ》いたが最後、それ異端者だ、切支丹《キリシタン》だ、やれ謀反人《むほんにん》だと大騒ぎをする」「うん、こいつはもっともだ」「今の浮世の有様は、太平無事でおめでたい」「結構ではないか。何が不平だ」「何らの昂奮をも許さない、何らの感激をも許さない、まして何らの革命をやだ」「お前は乱を望んでいるな?」「うん、そうだ、精神的のな。……おれは感激したいのだよ!」「感激をしてどうするのだ?」「おれは創造したいのだ!」「何、創造? 何をつくるのだ?」「何んでもいい、ただ何かを」「勝手につくったらよいではないか」「創造するに感激がいる」「大きに勝手に感激するさ」「ところがひとの世[#「ひとの世」に傍点]が許さない」「なに無理にも感激するさ」「無理にも感激しようとすると、親友なるものが邪魔をする」「え? 親友が邪魔をするって?」「恋も一つの感激だ。せっかく情女《おんな》を見つけると、親友が邪魔をしてひき放してしまう」「それは女が悪党だからよ」「愛する物を捨てるのもまさしく一つの感激だ。すると親友が取りかえして来る」「それも物によりけりだ。伝家の至宝を失っては、先祖に対しても済むまいがな」「みやこに住むということは、おれにとっては感激だ。ところがおせっかいの親友なるものが、山の中へひっ張って来る」「その男が虚弱《よわい》からだ。その男が病気だからだ。そうだ少くとも神経のな」「で、何もかもその親友は、平凡化そうと心掛ける。そうして感激の燃える火へ、冷たい水をそそぎかけ、創造の魂《たましい》を消そうとする。しかも親友の名のもとにな。他はおおかた知るべきのみだ」
「おい!」と造酒は気不味《きまず》そうに、「親切で行《や》った友達のしわざを、そうまで悪い方へ取らないでも、よかりそうなものに思われるがな」
「アッハハハ」と銀之丞は、突然大声で笑ったが、「怒るな、怒るな、怒ってはいけない。鬱《ふさ》ぎの虫のさせるわざだ。ああしかし退屈だな。何もかも面白くない。ああ実際退屈だな」
「ご免ください」
 とそのとたん、襖の蔭から声がした。同時にスーと襖が開き、隣り座敷の商人客《あきゅうどきゃく》が、にこやかに顔を突き出した。
「お武家様のお座敷へ、旅商人の身をもって、差出がましくあがりましたは、尾籠《びろう》千万ではございますが、隣り座敷で洩れ承われば、どうやら大分ご退屈のご様子、実は私も退屈のまま、何か珍しい諸国話でも、お耳に入れたいと存じまして、お叱りを覚悟でまずい面を、突き出しましてござりますよ。真《ま》っ平《ぴら》ご免くださいますよう」
 ていねいにお辞儀をしたものである。





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