国枝史郎「名人地獄」(015) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(15)

    追分宿の七不思議

「相談とは何を相談かな?」「甚三さんは土地のお方、これはどうも断ることが出来ぬ。金使いも綺麗、人品もよく、惜しいお方ではあるけれど、富士様の方はフリの客、いっそご出立を願おうかってね」「それが一番よさそうだな。そうだ、早くそうした方がいい。しかし素直に行くかしら?」「それはあなた、行きますとも。人柄《ひとがら》のお方でございますもの」「ふうん、あれが人柄かな。人柄のお方に見えるかな。私《わし》には怪しく思われるがな」
 するとお杉はニヤニヤしたが、「その怪しいで思い出した。この追分の七不思議、あなたご存知じゃございませんかね」「ナニ追分の七不思議? いいや一向聞かないね」「それじゃ話してあげましょうか。まず隣室《となり》の観世様」「観世様が何故不思議だ?」「あんまり鼓がお上手ゆえ」「なるほどこれはもっともだ」「それから馬子の甚三さん」「はあて追分がうま過ぎるからか」「それから唖《おし》娘のお霜さん。あんな可愛い様子でいて、物がいえないとは不思議だとね」「うん、そうしてその次は?」「綺麗すぎる富士甚内様」「これは確かに受け取れた」「心の分らないお北さん」「いかにもいかにもこれも不思議だ。さてその次は何者だな?」「このお杉だと申しますことで」「アッハハハハ、これは秀逸《しゅういつ》だ。実際お前は不思議な女だ。見さえすればおかしくなる。ところでしまいのもう一人は?」「他ならぬあなた様でございます」「へえどうしておれが不思議だ?」「絹商人と振れ込み[#「振れ込み」はママ]ながら、毎日毎日商売もせず、贅沢《ぜいたく》に暮らしておいでゆえ」
「ふん、何んだ、そんな事か」吐き出すようにいったものの、千三屋はいやな顔をした。
「で、何かい七不思議は、今宿場で評判なのかい?」
「さあどうでございますか」いいいい膳を片付けたが、「そんな事もございますまいよ。と、いいますのはその七不思議は、このお杉がたった今、即席に拵えたのでございますもの。はいさようなら、お粗相様《そそうさま》」
 いい捨て廊下へすべり出た。後を見送った千三屋は、「馬鹿!」と思わず怒鳴ったが、周章《あわ》ててその口を抑えたものである。
「油断も隙もならねえ奴だ。まさかこのおれを怪しい奴と、感付いたのじゃあるめえな。……こいつ仕事を急がずばなるめえ」
 腕を組み天井を見上げ、じっと何か考え出したが、その眼の中には商人らしくない、不敵な光が充ちていた。と、パラリと腕を解くと、その手でトントンと襖を叩き、
「平手様、平手様、ご都合よくば一面いかがで? おうかがい致してもよござんすかえ?」
「おお千三屋か、平手は留守だ。が構わぬ、はいって来い」観世銀之丞の声であった。
「真っ平ご免くださいまし」
 スルリと千三屋は襖を開けると、隣りの部屋へ入り込んだ。
 相変らず銀之丞は寝転んでいた。無感激の顔であった。しかしその眼の奥の方に、火のようなものが燃えていた。圧迫された魂であった。
「おい千三屋、おれは考えたよ」珍しく銀之丞はしゃべり出した。「禁制の海外へ密行するか、そうでなければ牢へはいるか。この二つより法はないとな。こうでもしたらおれの退屈も、少しぐらいは癒《いや》されるかも知れない。海外密行はむずかしいとしても、牢へはいるのは訳はない。他人の物を盗めばいい。どうだ千三屋賛成しないかな」「へーい」といったが商人は、度胆《どぎも》を抜かれた格好であった。「今日は悪日でございますよ。お杉の奴には嚇《おど》される、あなた様には脅かされる、ゆうべの夢見が悪かった筈だ」「お杉が何を嚇かしたな?」「へい七不思議の講釈で」「ナニ、七不思議だ? 馬鹿な事をいえ。そんな言葉は犬に食わせろ。一切この世には不思議などはないのだ。おれは神秘を信じない。だから、だから、退屈だともいえる」





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