国枝史郎「名人地獄」(019) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(19)

    馬上ながら斬り付けた

 こなた甚三は蹄に合わせ、次々に追分を唄って行った。彼の心は楽しかった。彼の心は晴れ渡っていた。……恋の競争者の富士甚内が、追分を見捨てて立ち去るのであった。お北を見捨てて立ち去るのであった。もうこれからは油屋お北は彼一人の物となろう。これまでは随分苦しかった。人知れず心を悩ましたものだ。相手は立派なお侍《さむらい》、殊に美貌で金もあるらしい。それがお北に凝《こ》っていた。そうしてお北もその侍に、心を奪われていたものだ。宿の人達は噂した。いよいよ甚三は捨てられるなと。誰に訴えることも出来ず、また訴えもしなかったが、心では悲しみもし苦しみもした。訴えられない苦しさは、泣くに泣かれない苦しさであった。泣ける苦痛は泣けばよい。訴えられる苦痛は訴えればよい。人に明かされない苦しさは、苦しさの量を二倍にする。宿の人達にでも洩らそうものなら、その人達はいうだろう、街道筋の馬子風情が、油屋の板頭と契るとは、分《ぶん》に過ぎた身の果報だ。捨てられるのが当然だと。では妹にでも訴えようか、妹お霜は唖《おし》であった。苦楽を分ける弟は、遠く去って土地にいない。神も仏も頼みにならぬ。……富士甚内が追分宿の、本陣油屋へ泊まって以来、甚三の心は一日として、平和の時はなかったのであった。……しかし今は過去となった。苦痛はまさに過ぎ去ろうとしていた。富士甚内がお北と別れ、追分宿を立ち去りつつある。すぐに平和が帰って来よう。これまで通り二人だけの、恋の世界が立ち帰って来よう。……
 甚三は声を張り上げて、次から次と唄うのであった。馬上では甚内が腕拱《こまね》き、じっと唄声に耳を澄まし、機会の来るのを待っていた。
「もうよかろう」と心でいって、四辺《あたり》を窃《ひそ》かに見廻した時には、追分宿は山に隠れ、燈《ともしび》一つ見えなかった。おおかた二里は離れたであろう。左は茫々たる芒原《すすきはら》。右手は谷川を一筋隔て、峨々たる山が聳えていた。甚内は拱いた腕を解くと、静かに柄を握りしめた。知らぬ甚三は唄って行った。今はひとのために唄うのではない。自分の声に自分が惚れ、自分のために唄うのであった。
[#ここから3字下げ]
追分油屋掛け行燈《あんどん》に
浮気ご免と書いちゃない
[#ここで字下げ終わり]
 甚内はキラリと刀を抜いた。

[#ここから3字下げ]
浅間山さんなぜやけしゃんす
腰に三宿持ちながら
[#ここで字下げ終わり]

 甚内は刀を振りかぶった。

[#ここから3字下げ]
北山時雨で越後は雨か
あの雨やまなきゃ会われない
[#ここで字下げ終わり]

 甚内はさっと甚三の、右の肩へ切りつけた。「わっ」と魂消《たまぎ》える声と共に、甚三は右手《めて》へよろめいたが、そのままドタリと転がった時、甚内は馬から飛び下りた。止どめの一刀を刺そうとした。
「まあ待ってくれ、富士甚内! 汝《われ》アおれを殺す気だな!」
「唄の上手が身の不祥、気の毒ながら助けては置けぬ」
「さてはお北も同腹だな!」
「どうとも思え、うぬが勝手だ」
「弟ヤーイ!」と甚三は、致死期《ちしご》の声を振り絞った。「われの言葉、あたったぞヤーイ! おれはお北に殺されるぞヤーイ!」
 よろぼいよろぼい立ち上がるのを、ドンと甚内は蹴り仆した。とその足へしがみ付いた。
 のたうち廻る馬方を、甚内は足で踏み敷いたが、おりから人の足音が、背後《うしろ》の方から聞こえて来たので、ハッとばかりに振り返った。二人の武士が走って来た。「南無三宝!」と仰天し、手負いの馬子を飛び越すと、街道を向こうへ突っ切ろうとした。と、行手から旅姿、菅の小笠に合羽を着、足拵《ごしら》えも厳重の、一見博徒か口入れ稼業、小兵《こひょう》ながら隙のない、一人の旅人が現われたが、笠を傾けこっちを隙《す》かすと、ピタリと止まって手を拡げた。腹背敵を受けたのであった。ギョッとしながらも甚内は、相手が博徒と見定めると、抜いたままの血刀を二、三度宙で振って見せ、
「邪魔ひろぐな!」
 と叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]した。





[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送