国枝史郎「名人地獄」(021) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(21)

    鼓賊《こぞく》江戸を横行す

 馬子の甚三の殺されたことは、追分にとっては驚きであった。驚きといえばもう一つ、油屋のお北が同じその夜にあたかも紛失でもしたように、姿を隠してしまったことで、これは酷《ひど》く宿の人達を、失望落胆させたものであった。さて、ところで、紛失《なくな》ったといえば、もう一つ紛失《なくな》った物があった。他ならぬ銀之丞の鼓であった。それと知ると平手造酒は、躍り上がって口惜《くや》しがり、
「千三屋が怪しい千三屋が怪しい!」と、隣室の呉服商を罵ったが、なるほどこれはいかにも怪しく、同じその夜にその千三屋も、どこへ行ったものか行方が知れなかった。
「おい観世、計られたな」
「いいではないか。うっちゃって置けよ」
「あれは名器だ。何がいい!」
「ナーニこれも一つの解脱《げだつ》だ」銀之丞はのんきであった。
「何が解脱だ。惜しいことをした」「捨身成仏《しゃしんじょうぶつ》ということがある。大事な物を捨てた時、そこへ解脱がやって来る」「また談義か、糞《くそ》でも食らえ」「アッハハハ、面白いなあ」「何が面白い、生臭坊主め!」
 造酒は目茶苦茶に昂奮したが、「ああそれにしても一晩の中に、これだけの事件が起ころうとは、何んという不思議なことだろう」
「おい平手、詰まらないことをいうな」銀之丞はニヤリとし、「不思議も何もありゃしないよ。この人の世には不思議はない。あるものは事実ばかりだ」「事実ばかりだ! ばかをいうな! これだけの事件の重畳《じゅうじょう》を、ただの偶然だと見るような奴には、運命も神秘も感ぜられまい」「運命だって? 神秘だって? 馬鹿な、そんなものがあるものか。それは低能児のお題目だ。無知なるがゆえに判《わか》らない。その無知を恥ずかしいとも思わず、判らないところのその物を差して、不思議だ神秘だ宿命だという。馬鹿馬鹿しくて話にもならぬ。……それはそうと実のところ、おれは少々失望したよ」「それ見るがいい、本音を吐いたな」「これだけの事件の衝突《ぶつか》り合いだ。もう少しこのおれを刺戟して、創造的境地へ引き上げてくれても、よかりそうなものだと思うのだがな」「ふん、何んだ、そんなことか。刺戟、昂奮、創造的境地! 何んのことだか解りゃしない」
「おれは駄目だ!」と観世銀之丞は、悄気《しょげ》たみじめな表情をした。「おれの所へ来るとあらゆる物が退屈そのものに化してしまう」「我《わ》がままだからよ。貴公は我がままだ」「おれの心は誰にもわからない。おれは気の毒な人間だ」「そうだとも気の毒な人間だとも」「この地にもあきた。江戸へ行きたい」「おれもあきた。江戸へ帰ろう」
 翌日二人は追分を立ち、中仙道を江戸へ下った。

 この頃不思議な盗賊が、江戸市中を横行した。鼓を利用する賊であった。微妙きわまる鼓の音が、ポン、ポン、ポンと鳴り渡ると、それを耳にした屋敷では、必ず賊に襲われた。どんなに奥深く隠して置いても、きっと財宝を掠められた。大名屋敷、旗本屋敷、そうでなければ大富豪、主として賊はこういう所を襲った。不思議といえば不思議であった。屋敷を廻って鼓が鳴る。それ賊だと警戒する。無数の人が宿直《とのい》をする。しかしやっぱり盗まれてしまう。鼓賊《こぞく》、鼓賊とこう呼んで、江戸の人達は怖《お》じ恐れた。「何のために鼓を鳴らすのだろう? どういう必要があるのだろう?」こう人々は噂し合ったが、真相を知ることは出来なかった。南町奉行筒井和泉守《つついいずみのかみ》、北町奉行榊原主計守《さかきばらかずえのかみ》、二人ながら立派な名奉行であったが、鼓賊にだけは手が出せなかった。跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》に委《まか》すばかりであった。
 この評判を耳にして一人雀躍《こおどり》して喜んだのは、「玻璃窓《はりまど》」の郡上《ぐじょう》平八であった。今年の春の大雪の夜、隅田堤で鼓の音を初めて彼が耳にして以来、実に文字通り寝食を忘れて、その鼓を突き止めようと、追っ駈け廻したものであった。しかるに不幸にも今日まで、行方を知ることが出来なかった。根気のよい彼も最近に至って、多少絶望を感じて来て、手をひこうかとさえ思っていた。その矢先に鼓賊なるものの、輩出したことを聞いたのであった。






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