国枝史郎「名人地獄」(024) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(24)

    大胆なのか白痴《ばか》なのか?

 これを聞くと取り次ぎの武士は、にわかにその眼を怒らせたが、「いやはやなんと申してよいか、田舎者と思えばこそ、事を分けて訓《さと》してやったに、それが解らぬとは気の毒なもの。よしよしそれほど撲られたいなら、望みにまかせ取り次いでやろう。逃げるなよ、待っておれ」
 こういい捨てて奥へはいったが、やがて笑いながらひっ返して来た。
「大先生はご来客で、そち[#「そち」に傍点]などにはお目にかかれぬ。しかし道場にはご舎弟《しゃてい》様はじめ、お歴々の方が控えておられる。望みとあらば通るがよい」「へえ、有難う存じますだ」
 で、田舎者は上がり込んだ。長い廊下を行き尽くすと、別構えの道場であった。カチ、カチ、カチ、というしないの音、鋭い掛け声も聞こえて来た。
「さあはいれ」といいながら、取り次ぎの武士がまずはいると、その後に続いて田舎者は、構えの内へはいっていった。見かすむばかりの大道場、檜《ひのき》づくりの真新しさ、最近に建てかえたものらしい。向かって正面が審判席で、その左側の板壁一面に、撃剣道具がかけつらねてあり、それと向かい合った右側には、門弟衆の記名札が、ズラとばかり並んでいた。審判席にすわっているのは、四十年輩の立派な人物、外ならぬ千葉定吉で、周作に取っては実の弟、文武兼備という点では周作以上といわれた人、この人物であったればこそ、北辰一刀流は繁昌し、千葉道場は栄えたのであった。性来無慾恬淡《てんたん》であったが、その代りちょっと悪戯《いたずら》好きであった。で、田舎者の姿を見るとニヤリと笑ったものである。その左側に控えていたのは、周作の嫡子岐蘇太郎《きそたろう》、また右側に坐っていたのは、同じく次男栄次郎であって、文にかけては岐蘇太郎、武においては栄次郎といわれ、いずれも高名の人物であった。岐蘇太郎の横には平手造酒が坐し、それと並んで坐っているのは、他ならぬ観世銀之丞であった。打ち合っていた門弟達は、田舎者の姿へ眼をつけると、にわかにクスクス笑い出したが、やがてガラガラと竹刀《しない》を引くと、溜《たま》りへ行って道具を脱ぎ、左右の破目板を背後《うしろ》に負い、ズラリと二列に居流れた。
「他流試合希望の者、召し連れましてござります」
 取り次ぎの武士は披露した。
 すると定吉は莞爾《にっこり》としたが「千代千兵衛とやら申したな」
「へえ、千代千兵衛と申しますだ。どうぞハアこれからはお心易く、願《ねげ》えてえものでごぜえます」田舎者はこういうと、一向平気で頭を下げた。胆《きも》が太いのか白痴《ばか》なのか、にわかに判断がつき兼ねた。
「で、流名はないそうだな?」
「へえ、そんなものごぜえません」
「当道場の掟として門弟二、三人差し出すによって、まずそれと立ち合って見い」
「へえ、よろしゅうごぜえます。どうぞ精々《せいぜい》強そうなところをお出しなすってくだせえまし」
「秋田氏《うじ》、お出なさい」
「はっ」というと秋田藤作、不承不承に立ち出でた。相手は阿呆の田舎者である、勝ったところで名誉にならず、負けたらそれこそ面汚《つらよご》しだ。一向栄《はえ》ない試合だと思うと、ムシャクシャせざるを得なかった。そのうっぷんは必然的に、田舎者の上へ洩らされた。「こん畜生め覚えていろ、厭というほどぶん撲ってやるから」で手早く道具を着けると、しない[#「しない」に傍点]を持って前へ出た。これに反して田舎者は、さも大儀だというように、ノロノロ道具を着けだしたが、恐ろしく長目のしない[#「しない」に傍点]を握ると、ノッソリとばかり前へ出た。双方向かい合ってしないを合わせた。
 礼儀だから仕方がない、「お手柔らかに」と藤作はいった。
「へえ、よろしゅうごぜえます」これが田舎者の挨拶であった。まるで頼まれでもしたようであった。
「よろしゅうござるとは呆れたな。悪くふざけた田舎者じゃねえか。よし脳天をどやしつけ、きな臭い匂いでも嗅がせてやろう」藤作は益※[#二の字点、1-2-22]気を悪くしたが、「ヤッ」というと立ち上がり、一足引くと青眼につけた。と相手の田舎者は、同時にヌッと立ち上がりはしたが、うん[#「うん」に傍点]ともすん[#「すん」に傍点]ともいわばこそ、背後《うしろ》へ一足引くでもなく、ぼやっとして立っていた。位取りばかりは上段であった。






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