国枝史郎「名人地獄」(026) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(26)

    観世銀之丞引き退く

 観世銀之丞は能役者であった。それが剣道を学ぶとは、ちょっと不自然に思われるが、そこは変り者の彼のことで、一門の反対を押し切って、千葉道場へは五年前から、門弟としてかよっていた。天才にありがちの熱情は、剣道においても英発《えいはつ》し、今日ではすでに上目録であった。千葉道場での上目録は、他の道場での免許に当たり、どうして堂々たるものであった。もっとも近来憂鬱になり、物事が退屈になってからは、剣道の方も冷淡となり、道場へ来る日も稀《まれ》となったが、今日は珍らしく顔を見せていた。
 道具を着けるとしない[#「しない」に傍点]を取り、静かに前へ進み出た。で田舎者もうずくまり、しない[#「しない」に傍点]としない[#「しない」に傍点]とを突き合わせた。と田舎者はまたいい出した。
「へえ、ちょっくらおきき致しますだ」「ああ何んでもきくがいい」「お前様の位所《くらいどころ》はえ?」「おれはこれでも上目録だよ」「へえさようでごぜえますかな。千葉道場での上目録は、大したものだと聞いているだ。さっきの野郎とは少し違うな」「これこれ何んだ。口の悪い奴だ」「それじゃおいらもちっとばかり、本気にならずばなるめえよ」「一ついいところを見せてくれ」
「やっ」と銀之丞は立ち上がった。ヌッと田舎者も立ち上がり、例によって例の如く、しない[#「しない」に傍点]を上段に振り冠ったが、姿勢が何んとなく変であった。「おや」と思って銀之丞は、相手の構えを吟味した。突然彼は、「あっ」といった。それと同時に審判席から、同じく、「あっ」という声がした。声の主は平手造酒だ。二人の驚いたのはもっともであった。千代千兵衛となのる田舎者は、足を前後へ構えずに、左右へウンと踏ん張っていた。銀之丞は考えた。
「ははあ、さてはあいつ[#「あいつ」に傍点]であったか。北国街道の芒原で、甚三殺しの富士甚内を、不思議な構えでおどしつけた、博徒姿の旅人があったが、ははあさてはこいつ[#「こいつ」に傍点]であったか。それにしてもいったい何者であろう?」……で、じっと様子を見た。相変らず全身隙だらけであった。胴も取れれば小手も取れた。決して習った剣道ではなかった。それにもかかわらず彼の体からは、不思議な力がほとばしり、こっちの心へ逼って来た。面《おもて》も向けられない殺気ともいえれば、戦闘的の生命力ともいえた。とまれ恐ろしい力であった。
「業《わざ》からいったら問題にもならぬ。おれの方がずっと上だ。しかし打ち合ったらおれが負けよう。ところで平手とはどうだろう? いや平手でも覚束ない、この勝負はおれの負けだ。負ける試合ならやらない方がいい」こう考えて来た銀之丞は、一足足を後へ引いた。そうして「参った」と声をかけた。道具を解くとわるびれもせず、元の席へ引き上げて行った。
「どうした?」と造酒はそれと見ると、気づかわしそうにささやいた。「お前の手にも合わないのか?」
 すると銀之丞は頷《うな》ずいたが、「恐ろしい意気だ。途方もない気合いだ」「追分で逢った博徒のようだが」「うん、そうだ、あいつだよ」「待ったなし流とかいったようだな」「うん、そうそう、そんなことをいったな」「ポンポンガラガラ打ち合わずに、最初の一撃でやっつける、つまりこういう意味らしいな」「うん、どうやらそうらしい」「足を左右に踏ん張ったでは、進みもひきもならないからな。居所攻《いどころぜ》めという奴だな」「そうだ、そいつだ、居所攻めだ。胴を取られても小手を打たれても、擦《かす》った擦ったといって置いて、敵が急《あせ》って飛び込んで来るところを、真っ向から拝み打ち、ただ一撃でやっつけるのだ」「観世、おれとはどうだろう?」「平手、お前となら面白かろう。しかし、あるいは覚束ないかもしれない」
 いわれて造酒は厭な顔をしたが、田舎者の方をジロリと見た。と田舎者は相も変らず、ノッソリとした様子をして、道場の真ん中に立っていた。たいして疲労《つか》れてもいないらしい。審判席では定吉先生が、さも驚いたというように、長い頤髯《ひげ》を扱《しご》いていた。眉の間に皺が寄っていた。神経的の皺であった。
「秋田藤作は駄目としても、観世銀之丞は上目録だ、それが一合も交わさずに、引き退くとは驚いたな。非常な腕前といわなければならない。しかしどうも不思議だな、そんな腕前とは思われない」






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