国枝史郎「名人地獄」(029) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(29)

    忽ち崩れた金剛の構え

 中肉中丈《ぜい》で色白く、眉目清秀で四十一、二、頬にも鼻下にも髯のない、一個瀟洒《しょうしゃ》たる人物が、黒紋付きの羽織を着、白縞の袴を裾長に穿き、悠然とそこに立っていた。千葉周作成政であった。
「む」というと平手造酒は、構えを崩して後へ引いた。と、周作は造酒に代り、田舎者千代千兵衛へ立ち向かった。
 田舎者の上段は、なお崩れずに構えられた。それへ向けられた鉄扇は、一見いかにも弱々しく、そうして周作の表情には、鋭さを示す何物もなかった。
 静かであり冷ややかであった。しかるに忽然《こつぜん》その顔へ、何かキラリと閃めいた。その時初めて田舎者の金剛不動の構えが崩れ、両足でピョンと背後《うしろ》へ飛んだ。そうしてそこで持ち耐《こら》えようとした。しかしまたもや周作の顔へ、ある感情が閃めいた。とまた千代千兵衛は後へさがった。そうしてそこで持ち耐えようとした。しかし三度目の感情が、周作の顔へ閃めいた時、千代千兵衛の構えは全く崩れ、タ、タ、タ、タ、タ、タと崩砂《なだれ》のように、広い道場を破目板《はめいた》まで、後ろ向きに押されて行った。そうしてピッタリ破目板へ背中をくっつけてしまったのである。
 追い詰めて行った周作は、この時初めて「カッ」という、凄じい気合いを一つ掛けたが、それと同時に鉄扇を、グイとばかりに手もとへひいた。するとあたかも糸でひかれた、繰《あやつ》り人形がたおれるように、そのひかれた鉄扇に連れ、千代千兵衛のからだはパッタリと、前のめりにたおれたが、起き上がることが出来なかった。全く気絶したのであった。
 周作は穏《おだや》かに微笑したが、審判席へ歩み寄った。舎弟定吉が席を譲った。その席へ悠然と坐った時、道場一杯に充ちていた、不安と鬱気とが一時に、快然と解けるような思いがした。
「平手、平手」と周作は呼んだ。「今の勝負、お前の負けだ」
「私もさよう存じました」造酒は額の汗を拭き、「恐ろしい相手でございます」
「これはな、別に不思議はない。実戦から来た必勝の手だ」
「実戦から来た必勝の手? ははあさようでございますかな」
「というのは外でもない」周作はにこやかに笑ったが、「泰平の世の有難さ、わしの門弟は数多いが、剣《つるぎ》の稲妻、血汐の雨、こういう修羅場を経て来たものは、恐らく一人もあるまいと思う。いやそれはない筈だ。しかるにそこにいる千代千兵衛という男、その男だけは経て来ている。恐らくこやつは博徒であろう。それも名のある博徒であろう。彼らの言葉で出入《でい》りというが、百本二百本の長脇差が、縦横に乱れる喧嘩の場を、潜《くぐ》って来た奴に相違ない。それも一回や二回ではない。幾度となく潜って来た奴だ。それは自然と様子で知れる。そこだ、陸上の水練の、役に立たないというところは! 胴をつけ面を冠り、しないを取っての試合など、例えどんなに上手になっても、一端戦場へ出ようものなら、雑兵ほどの役にも立たぬ。残念ではあるが仕方がない、これは実にやむを得ぬことだ」
 こういって周作は、またにこやかに笑ったが、
「もうそろそろよいだろう。どれ」というと立ち上がり、田舎者の側へ寄って行った。この時までも緊《しっか》りと、しないを握っていた十本の指を、まず順々に解いて行き、やがてすっかり解いてしまうと、上半身を抱き起こした。やっ! という澄み切った気合い、ウーンという呻き声が、田舎者の口から洩れたかと思うと、すぐムックリと起き上がった。別にキョロキョロするでもなく、一渡り四辺《あたり》を見廻したが、周作の姿へ眼を止めると、「参った!」といって手を突いた。
「どうだな気分は? 苦しくはないかな?」
 気の毒そうに周作はきいた。
「へい、お肚《なか》が空きやした」これが田舎者の挨拶であった。
「おお空腹か、そうであろう、誰か湯漬《ゆづ》けを持って来い。……さてその間にきく事がある。もう本名を明かせてもよかろう」






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