国枝史郎「名人地獄」(030) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(30)

    剣《つるぎ》の神様でございます

「へい、もうこうなりゃ仕方がない、何んでも申し上げてしまいますよ」「産まれはどこだ? これから聞きたい」「へい、上州でございます」「うん、そうして上州はどこだ?」「佐位郡《さいごおり》国定村《くにさだむら》で」
 すると周作は頷《うなず》いたが、「ではお前は忠次であろう?」
「へい、図星でございます。国定忠次でございます」
 これを聞くと道場一杯、押し並んでいた門弟の口から、「ハーッ」というような声が洩れた。これは驚いた声でもあり、感動をした声でもあった。当時国定忠次といえば、関東切っての大侠客、その名は全国に鳴り渡っていて、「国定忠次は鬼より怖い、ニッコリ笑えば人を斬る」と唄にまで唄われていたものである。その忠次だというのであるから、ハーッと驚くのももっともであろう。
「おお、そうか、忠次であったか、わしもおおかたその辺であろうと、実は眼星をつけていたが、いよいよそうだと明かされて見ると、妙に懐かしく思われるな。それはそうとさて忠次、よい構えを見つけたな」
「へい、これは恐れ入ります。ほんの自己流でございまして、お恥ずかしく存じます」
「剣の終局は自己流にある。一派を編み出し一流を開く、すべて自己の発揮だからな。いつその構えは発明したな?」
「島の伊三郎を討ち取りました時から、自得致しましてございます」
「しかし忠次その構えでは、お前も随分切られた筈だが?」
「仰せの通りでございます」こういうと忠次は右腕を捲った。五、六ヵ所の切傷《きず》があった。「かような有様でございます」それから彼は左腕を捲った。七、八ヵ所の切傷《きず》があった。「この通りでございます」それから彼はスッポリと、両方の肌を押し脱いだ。胸にも肩にも左右の胴にも、ほとんど無数の太刀傷があった。「ご覧の如くでございます」それから彼は肌を入れた。
「ううむなるほど、見事なものだな」周作は感心してうなずいた。
「へい、わっちが待ったなし流で、じっと構えておりますと、相手の野郎はいい気になって、ちょくちょく切り込んで参ります。それをわっちは平気の平左で、切らして置くのでございますな。ビクビクもので切って来る太刀が、何んできまることがございましょう。皮を切るか肉にさわるか、とても骨までは達しません。そこがつけ目でございます。そうやって充分引きつけて置いて、いよいよ気合いが充ちた時、それこそ待ったなしでございますな、一撃にぶっ潰すのでございます」忠次はここでニヤリとした。
「お前と立ち合った人間の中、これは恐ろしいと思った者が、一人ぐらいはあったかな?」「へい、一人ございました」「おおそうか、それは誰だな?」「そこにいらっしゃる平手様で」「ナニ平手? ふうん、そうか」「何んと申したらよろしいやら、細い鋭い針のようなものが、遠い所に立っている。とてもそこまでは手が届かない。こんな塩梅《あんばい》に思われました。技芸《わざ》の恐ろしさをその時初めて、感じましてございますよ」「しかし試合はお前の勝ちだ」「それはさようかも知れませぬ。わっちの構えは技芸だけでは、破られるものではございません」
 すると周作は莞爾《にっこり》としたが、「ではなぜおれに破られたな?」
 すると忠次はいずまいを正し、「へい、それは先生には、人間でないからでございますよ」「人間でない? それでは何か?」
「剣《つるぎ》のひじりでございます。剣の神様でございます。先生にじっとつけられました時、これまでかつて感じたことのない、畏敬の心が湧きました。そうして先生のお姿も、また鉄扇もなんにも見えず、ただ先生のお眼ばかりが、二つの鏡を懸けたように、わっちの眼前で皎々《こうこう》と、輝いたものでございます。とたんにわっちの構えが崩れ、あの通りの有様に気絶してしまったのでございます」
 忠次ほどの豪傑も、こういってしまうと額の汗を、改めて拭ったものである。






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