国枝史郎「名人地獄」(032) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(32)

    江戸市中人心恟々《きょうきょう》

 その翌日のことであるが、江戸市中は動揺した。日本堤の土手の上で、恐ろしい辻斬りがあったからであった。殺されたのは二人の武士で、桃井塾の門弟の中でも、使い手の方だということであったが、一人は袈裟掛け一人は腰車、いずれも一刀でしとめられていた。
「桃井塾の乱暴者、結句殺されていい気味だ」と、人々はかえって喜んだが、ただ喜んでいられないような、恐ろしい事件がもう一つ起こった。その同じ夜に谷中の辻で、掛け取り帰りの商家の手代が、これも一刀にしとめられ、金を五十両取られたのであった。
「おい観世、少し変だな」
 その翌日道場の隅で、二人顔を合わせた時、造酒は銀之丞へささやいた。「我々がやったのは二人だけだのに、死人が三人とはおかしいではないか」
「うん、少しおかしいな」銀之丞は首をかしげ、「我々以外にもう一人、辻斬りをやったものがあるらしいな」「そうだ、どうやらあるらしい。それにしても不都合だな。殺したあげく金を取るとは」
 二人はちょっと厭な顔をした。
「それはそうとオイ観世、人を斬ってどんな気持ちがしたな?」「平手、何んともいえなかったよ。まず一刀切りつけたね、するとカッと血が燃えたものだ。と思った次の瞬間には、スーッとそいつが冷え切ったものだ。頭が一時に澄み返り、シーンとあたりが寂しくなった。その時おれは思ったよ、生き甲斐がある生き甲斐があるとな」「ふうむなるほど、面白いな」「で、お前はどうだったな?」「真の手応え! こいつを感じたよ」「ふうむなるほど、面白いな」

 翌晩またも辻斬りがあった。場所は上野の山下で、殺されたのは二人の武士、やっぱり桃井の塾弟子であった。しかるにもう一人隅田堤で、町家の主人が殺されていた。
 それからひきつづいて十日というもの、毎晩三人ずつ殺された。二人はいつも武士であったが、一人はおおかた町人で、そうしてきっと金を取られていた。
 鼓賊の禍いにかててくわえて、辻斬り沙汰というのであるから、江戸の人心は恟々《きょうきょう》として、夜間の通行さえ途絶えがちになった。

 こういう物騒なある晩のこと、面白い事件が勃発した。いやそれはむしろ面白いというより、奇怪な事件といった方がよい。町人一人に武士五人、登場人物は六人であった。素晴らしい事件ではあったけれど、また非常に複雑を極めた、微妙な事件ではあったけれど、秘密の間に行われたためか、市民達はほとんど知らなかった。捕物帳にも載せてなければ、奉行所の記録にも記されてない。これは疎漏《そろう》といわなければならない。
 で、その晩のことであるが、みすぼらしい一人の侍《さむらい》が、下谷池ノ端をあるいていた。登場人物の一人であった。すると向こうから老武士が来た。登場人物の二人目であった。
 二人は事もなく擦れ違おうとした。「あいやしばらくお待ちくだされ」とたんに老武士が声を掛けた。
 すると、みすぼらしい侍は、そのまま静かに足をとめたが、「何かご用でござるかな?」
「用と申すではござらぬが、物騒のおりからかかる深夜に、どこへお越しなされるな?」
「これはこれは異なお尋ね、深夜にあるくが不審なら、なぜそこもともおあるきなさる」みすぼらしい侍はしっぺ返したが、これはいかにももっともであった。
「いやナニそのように仰せられては、角が立って変なもの、とがめ立てしたが悪いとなら、拙者幾重にもおわび致す」老武士は言葉を改めた。






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