国枝史郎「名人地獄」(034) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(34)

    意外、意外、また意外!

 さて一方老武士は、ポンポンと鳴る鼓を追って、ドンドンそっちへ走って行ったが、松平出雲守の邸前まで来ると、音の有所《ありか》が解らなくなった。はてなと思って耳を澄ますと、やっぱり鼓は鳴っていた。どうやら西の方で鳴っているらしい。でそっちへ走って行った。そこに立派な屋敷があった。松平備後守の屋敷であった。しかしそこまで行った時には、もう音は聞こえない。しかしそれより南の方角で、幽《かす》かにポンポンと鳴っていた。
「素早い奴だ」と舌を巻きながら、老武士は走らざるを得なかった。式部少輔榊原家の、裏門あたりまで来た時であったが、はじめて人影を見ることが出来た。尾行《つ》ける者ありと知ったのでもあろう、もう鼓を打とうとはせず、その人影は走って行った。その走り方を一眼見ると、
「しめた!」と老武士は思わずいった。
「横あるきだ横あるきだ!」
 その横歩きの人影は、見る見る煙りのように消えてしまった。
「よし、あの辺は今生院《こんじょういん》だな。東へ抜けると板倉家、西へ突っ切ると賀州殿、これはどっちも行き止まりだ。さて後は南ばかり、あっ、そうだ湯島へ出たな!」
 考える間もとし[#「とし」に傍点]遅《おそ》しで、老武士は近道を突っ走った。

「これ、ばか者、気をつけるがいい、何んだ、うしろからぶつかって来て」
 こう怒鳴りつける声がした。湯島天神の境内であった。怒鳴ったのは侍で、ほかならぬ観世銀之丞であった。各※[#二の字点、1-2-22]《おのおの》好む道へ行こう、お前は武者修行へ出るがよい、おれは本職の能役者へ帰ると、こういって親友の平手造酒と、黒門町で手を分かつと、麹町のやしきへ戻ろうと、彼はここまで来たのであった。その時やにわにうしろから、ドンとぶつかったものがあった。
「これ何んとか挨拶をせい。黙っているとは不都合な奴だ」
 いいいい四辺《あたり》を見廻した。するとどこにも人影がない。
「あっ」と銀之丞は飽気《あっけ》に取られた。
「これは不思議、誰もいない」
 気がついて自分の手もとを見た。そこでまた彼は「あっ」といった。空身であった彼の手が、変な物を持っていた。
「なんだこれは?」とすかして見たが、三度彼は「あっ」といった。今度こそ本当の驚きであった。彼の持っている変な物こそ、ほかでもない鼓であった。それも尋常な鼓ではない。かつて追分で盗まれた、家宝少納言の鼓であった。
「むう」思わず唸ったが、そのままじっと考え込んだ。
 と、また人の足音がした。ハッと思って振り返った眼前《めさき》へ、ツト現われた老武士があった。
「卒爾《そつじ》ながらおたずね致す」
「何んでござるな、ご用かな?」場合が場合なので銀之丞は、身構えをしてきき返した。
「只今ここへ怪しい人間、確かに逃げ込み参った筈、貴殿にはお見掛けなされぬかな?」
「見掛けませぬな。とんと見掛けぬ」
「それは残念、ご免くだされ」
 いい捨て向こうへ駆け抜けようとしたが、幽かな常夜燈の灯に照らし、銀之丞の持っている鼓を見ると、飛燕のように飛び返って来た。
 銀之丞の手首をひっ掴むと、「曲者捕《と》った……鼓! 鼓!」
「黙れ!」と銀之丞は一喝した。「鼓がどうした? 拙者の鼓だ!」
「何んの鼓賊め! その手には乗らぬ! 神妙に致せ! 逃《の》がしはせぬぞ!」
「鼓賊とは何んだ! おおたわけ! 拙者は観世銀之丞、柳営おとめ[#「おとめ」に傍点]芸の家門だぞ!」
 これを聞くと老武士は、にわかに後へ下がったが、
「ナニ観世銀之丞とな。誠でござるかな、どれお顔を……あっ、いかにも銀之丞殿だ!」
「掛《か》け値《ね》はござらぬ。銀之丞でござる。……ところで貴殿はどなたでござるな?」






[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送