国枝史郎「名人地獄」(037) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(37)

    弟を呼ぶ兄の声

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追分油屋掛け行燈に
浮気ご免と書いちゃない
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 清涼とした追分節が、へさき[#「へさき」に傍点]の方から聞こえて来た。
 ここは外海の九十九里ヶ浜で、おりから秋の日暮れ時、天末を染めた夕筒《ゆうづつ》が、浪平《たいら》かな海に映り、物寂しい景色であったが、一隻の帆船が銚子港へ向かって、駸々《しんしん》として駛《はし》っていた。
 その帆船のへさき[#「へさき」に傍点]にたたずみ、遙かに海上を眺めながら、追分を唄っている水夫《かこ》があった。
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北山時雨で越後は雨か
この雨やまなきゃあわれない
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 続けて唄う追分が、長い尾をひいて消えた時、
「うまい」という声が聞こえて来た。で、ヒョイと振り返って見た。若い侍が立っていた。
「かこ[#「かこ」に傍点]なかなか上手だな」至極《しごく》早速な性質と見えて、その侍は話しかけた。
「どこでそれほど仕込んだな?」
「これはこれはお武家様、お褒めくだされ有難い仕合わせ」かこ[#「かこ」に傍点]は剽軽《ひょうきん》に会釈したが、「自然に覚えましてございますよ」
「自然に覚えた? それは器用だな」こういいいい侍は、帆綱の上へ腰を掛けたが、「実はなわしにはその追分が、特になつかしく思われるのだよ」
「おやさようでございますか」
「というのは他でもない。その文句なりその節なり、それとそっくりの追分を、わしは信州の追分宿で聞いた」
 するとかこ[#「かこ」に傍点]は笑い出したが、「甚三の追分でございましょうが」
「これは不思議、どうして知っているな?」
「信州追分での歌い手なら、私の兄の甚三が、一番だからでございます」
「お前は甚三の弟かな?」
「弟の甚内でございます」
「そうであったか、奇遇だな」侍はちょっと懐かしそうに、「いや甚三の弟なら、追分節はうまい筈だ」
「ところがそうではなかったので、唄えるようになりましたのは、このごろのことでございます」
「というのはどういう意味だな?」侍は怪訝《けげん》な顔をした。
「はい、こうなのでございます。ご承知の通り私《わたし》の兄は、あの通り上手でございますのに、どうしたものかこの私は、音《おん》に出すことさえ出来ないという、不器用者でございましたところ、さああれはいつでしたかな、月の良い晩でございましたが、ぼんやり船の船首《へさき》に立ち、故郷《くに》のことや兄のことを、思い出していたのでございますな。すると不意にどこからともなく、兄の声が聞こえて参りました」
「ふうんなるほど、面白いな」
「いえ面白くはございません。気味が悪うございました。『弟ヤーイ』と呼ぶ声が、はっきり聞こえたのでございますもの」
「弟ヤーイ、うんなるほど」
「『お前のいったこと中《あた》ったぞヤーイ』と、こうすぐ追っ駈けて聞こえて参りました」
「それはいったいどういう意味だ?」
「どういう意味だかこの私にも、解らないのでございますよ。とにかく大変悲しそうな声で、それを聞くと私のからだは、総毛立ったほどでございます。と、どうでしょうそのとたんに、私の口から追分が、流れ出たではございませんか」
「不思議だなあ、不思議なことだ」
「不思議なことでございます。いまだに不思議でなりません。これは冗談にではございますが、よく私は兄に向かって、こういったものでございます。『兄貴はきっとおれの声まで、攫《さら》って行ったに違《ちげ》えねえ。だからそんなにうめえのだ』とね。で、私はその時にも、これは兄貴めがおれの声を、返してくれたに相違ねえと、こう思ったものでございますよ」
「それはあるいはそうかも知れない」若い侍はまじまじと、かこの顔を見守ったが、「いつ頃お前は追分を出たな?」
「今年の夏でございます」
「その後一度も帰ったことはないか?」






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