国枝史郎「名人地獄」(038) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(38)

    初めて知った甚三の死

「はい一度もございません」
「……だから何んにも知らないのだ。……悪いことはいわぬ一度帰れ。それも至急帰るがいい」
「はい、有難う存じます。実は私は思いたって、故郷《くに》を出て海へ来たからには、海で一旗上げるまでは、追分の土は踏むまいと、心をきめておりましたが、そんな事があって以来、兄のことが気にかかり、どうも心が落ち着きませんので、この頃一度帰ってみようかと、思っていたところでございますよ」「それは至急に帰るがいい。……恐らくお前の驚くようなことが、持ち上がっているに相違ない」
「へえ、さようでございましょうか?」かこ[#「かこ」に傍点]甚内は疑わしそうに、侍の顔を見守った。
「わしはな、事情を知っているのだ。しかしどうも話しにくい。話したらお前はびっくりして、気を取り乱すに違いない。それが気の毒でいい兼ねる」
「それではもしや兄の身の上に、変事でもあったのではございますまいか?」
 甚内はさっと顔色を変えた。
「それそういう顔をする。だからいい悪《にく》いといったのだ。……変事があったら何んとする?」
「変事によりけり[#「よりけり」に傍点]でございますが、もしや人にでも殺されたのなら、そやつ活かして置きません」
「ふうむ、そうか」と若い侍は、それを聞くと眼をひそめたが、「さては予感があったと見える」
「ええ、予感とおっしゃいますと?」
「お前の兄が何者かに、深い怨みでも受けていて、そやつに殺されはしないかと……」
「飛んでもないことでございます。何んのそんなことがございますものか。兄は善人でございます。よい人間でございます。私と異《ちが》って穏《おとな》しくもあり、宿の人達には誰彼となく、可愛がられておりました。……だが、ここにたった一つ……」
「うむ、たった一つ、どうしたな?」
「心配なことがございました」
「恋であろう? お北との恋!」
「おお、それではお武家様には、そんなことまでご存知で?」
「その恋が悪かったのだ」
「ではやっぱり私の兄は……あの女郎のお北めに?」
「無論お北も同腹だが、真の殺し手は他にある」
「それじゃ兄はどいつかに、殺されたのでござんすかえ?」
 甚内はワナワナ顫え出した。
「助けてやろうと我々二人、すぐに後を追っかけたが、一足違いで間に合わなかった」
「嘘だ嘘だ! 殺されるものか!」
「凄いような美男の武士……」
「凄いような美男の武士?」思わず甚内は鸚鵡返《おうむがえ》した。
「定紋は剣酸漿《けんかたばみ》だ。……」
「定紋は剣酸漿!」
「お北の新しい恋男だ。……」
「ううむ、そいつが殺したんだな!」
「その名を富士甚内といった」
「それじゃそいつが敵《かたき》だね!」
「おおそうだ、尋ね出して討て!」
「お武家!」
 というと甚内は、侍の袂《たもと》を引っ掴んだ。
「う、う、嘘じゃあるめえな※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「嘘をいって何んになる!」
「う、う、嘘じゃあるめえな※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「…………」
「嘘じゃねえ、嘘じゃねえ、ああ嘘じゃなさそうだ!」
 ガックリ甚内は首を垂れたが、しばらくは顔を上げようともしない。
 この間も船は帆駛《ほばし》って行った。名残《なごり》の夕筒《ゆうづつ》も次第にさめ、海は漸次《だんだん》暗くなった。帆にぶつかる風の音も、夜に入るにしたがって、次第にその音を高めて来た。






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