国枝史郎「名人地獄」(046) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(46)

    刎《は》ね橋と開けられた小門

 その翌日のことであったが、銀之丞が一人野をあるいていると、どこからともなくいしつぶてが、例のように飛んで来た。受け取って見ると紙が巻いてあった。そうして紙にはただ一字「い」という文字が書いてあった。
 最初のつぶてには「あ」と書いてあり、次のつぶてには「い」と書いてあった。二つ合わせると「あい」であった。「ハテ『あい』とはなんだろう?」思案せざるを得なかった。「これを漢字に当て嵌《は》めると『鮎《あい》』ともなれば『哀《あい》』ともなる。『間《あい》』ともなれば『挨《あい》』ともなる。そうかと思うと『靉《あい》』ともなる。いずれ何かの暗号ではあろうが、さて何んの暗号だろう? そうしていったい何者が、こんな悪戯《いたずら》をするのだろう?」
 考えてみれば気味が悪かった。とはいえ大剛《たいごう》の彼にとっては、恐怖の種とはなりそうもなかった。
 それはとにかく、銀之丞は、駕籠の中に見た女の俤《おもかげ》を、忘れることが出来なかった。
「女は確かに娘らしい。あの『主知らずの別荘」の、家族の一人に相違ない。それも決して女中などではなく、丑松の話したお嬢さんでもあろう」
 女色《じょしょく》に淡い彼ではあったが、不思議と心をそそられた。
 二度目の暗号を渡された日の、その翌晩のことであったが、彼はフラリと宿を出ると、別荘の方へ足を向けた。それは月影の美しい晩で、そぞろあるきには持って来いであった。少しあるくと町の外《はず》れで、すぐに耕地となっていた。その耕地を左右に見て、一本の野良道を先へ進んだ。土橋を渡るともう荒野で、地層は荒々しい岩石であったが、これは海岸に近いからであった。そういえば波の音がした。
 彼はズンズンあるいて行った。間もなく別荘の前へ出た。
 廻れば五町はたっぷりあろうか、そういう広大な地所の中に、別荘は寂然《せきぜん》と立っていた。三間巾の海水堀、高い厚い巌畳《がんじょう》な土塀、土塀の内側《うちがわ》の茂った喬木、昼間見てさえなかの様子は、見る事が出来ないといわれていた。
 夜はかなり更けていた。堀の水は鉛色に煙り、そとへ突き出した木々の枝葉で、土塀のあちこちには蔭影《かげ》がつき、風が吹くたびにそれが揺《ゆ》れた。前と左右は物寂しい荒野で、そうして背後《うしろ》は岩畳《いわだたみ》を隔てて、海に続いているらしい。
 人っ子一人通っていない。市《まち》の燈火《ともしび》は見えていたが、ここからは遙かに隔たっていた。別荘には一点の火光もなく、人のけはいさえしなかった。
 それは別荘というよりも、荒野の中の一つ家《や》であり、わすれ去られた古砦であり、人の住居《すまい》というよりも、死の古館《ふるやかた》といった方が、ふさわしいように思われた。すでに刎ね橋はひき上げられていた。
「何という寂しい構えだろう」
 呟きながら銀之丞は、堀に沿って右手へ廻った。すると意外にも眼の前に、刎ね橋が一筋かかっていた。そこは別荘の側面で、土塀には小門が作られてあったが、それへ通ずる刎ね橋であった。こういう場合おおかたの人は好奇心に捉われるものであった、で、彼も好奇心に駆られ、刎ね橋を向こうへ渡って行った。そうして小門へさわってみた。と、手に連れて音もなく、小門の戸が向こうへ開いた。
「おや」とばかり驚きの声を、思わず口から飛び出させたが、さらに一層の好奇心が、彼の心を駆り立てた。






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