国枝史郎「名人地獄」(002) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(02)

    登場人物はまさしく五人

 しかし主人は不安そうに、「確かかな? 大丈夫かな?」
「三十の歳《とし》から五十まで、寛政七年から文政元年まで、ざっと数えて二十年間、私《わし》はこの道では苦労しています」
「が、そのお偉い『玻璃窓』の旦那も、鼠小僧にかかってはね」
「あれは別だ」と厭な顔をして「鼠小僧は私の苦手だ」
 おりから同じ方角から、鼓《つづみ》の音が聞こえて来た。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、堤に添って遠隔《とおざか》って行った。
 すいかけた煙管《きせる》を膝へ取り、平八老人は耳を澄ましたが、次第にその顔が顰《ひそ》んで来た。
 梅はおおかた散りつくし、彼岸の入りは三日前、早い桜は咲こうというのに、季節違いの大雪が降り、江戸はもちろん武蔵《むさし》一円、経帷子《きょうかたびら》に包まれたように、真っ白になって眠っていたが、ここ小梅の里の辺《あた》りは、家もまばらに耕地ひらけ、雪景色にはもってこいであった。その地上の雪に響いて、鼓の音は冴え返るのであった。
「よく抜ける鼓だなあ」思わず平八は感嘆したが、「これは容易には忘れられぬわい。ああ本当にいい音《ね》だなあ。……しかし待てよ? あの打ち方は? これは野暮だ! 滅茶苦茶だ! それにも拘らずよい音だなあ」
 ついと平八は立ち上がった。それからのそり[#「のそり」に傍点]と縁へ出た。
「さて、ご老体、出かけましょうかな」
「ナニ出かける? はてどこへ?」一閑斎は怪訝《けげん》そうであった。
「刃の稲妻……」と故意《わざ》と皮肉に、「消えた提灯、女の悲鳴、雪に響き渡る小鼓とあっては、こいつうっちゃっては置けませんからな」「ははあそれではお調べか?」「玻璃窓の平八お出張《でば》りござる」「鼠小僧がおりましょうぞ」「ううん」とこれには平八老人も、悲鳴を上げざるを得なかった。「八蔵八蔵!」と一閑斎は、下男部屋の方へ声をかけた。「急いで提灯へ火を入れて来い。そうしてお前も従《つ》いておいで。――それでは旦那出かけましょうかな。フ、フ、フ、フ、玻璃窓の旦那」
 そこで皮肉な二老人は、庭の上へ下り立った。下男の提灯が先に立ち、続いて平八と一閑斎、裏木戸を押すと外へ出た。と広々とした一面の耕地で、隅田堤《すみだづつみ》が長々と、雪を冠《かぶ》って横仆《よこたわ》っていた。雪を踏み踏みその方角へ、三人の者は辿《たど》って行った。
 堤へ上《のぼ》って見廻したが、なるほど死骸らしいものはない。血汐一滴零《こぼ》れていない。ただ無数の足跡ばかりが、雪に印されているばかりであった。「提灯を」と平八はいった。「……で、あらかじめ申して置きます。こればかりが手がかりでござる、足跡を消してくださるなよ」
 八蔵から受け取った、提灯をズイと地面へさしつけると、彼は足跡を調べ出した。もう暢気《のんき》な隠居ではない。元《もと》の名与力郡上平八で、シャンと姿勢もきまって来れば、提灯の光をまともに浴びて、キラキラ輝く眼の中にも、燃えるような活気が充ちていた。一文字に結んだ唇の端《はし》には、強い意志さえ窺《うかが》われた。昔取った杵柄《きねづか》とでもいおうか、調べ方は手堅くて早く、屈《かが》んだかと思うと背伸びをした。膝を突いたかと思うと手を延ばし、何か黒い物をひろい上げた。つと立ち木の幹を撫《な》でたり、なお降りしきる雪空を、じっとしばらく見上げたりした。堤の端を遠廻りにあるき、決して内側へは足を入れない。やがて立ち上がると雪を払ったが、片手で提灯の弓を握り、片手を懐中《ふところ》で暖めると、しばらく佇《たたず》んで考えていた。提灯の光の届く範囲《かぎり》の、茫と明るい輪の中へ、しきりに降り込む粉雪が、縞を作って乱れるのを、鋭いその眼で見詰《みつ》めてはいるが、それは観察しているのではなく、無心に眺めているのであった。
「疑惑」と「意外」のこの二つが、彼の顔に現われていた。
「登場人物は締めて五人だ」彼は静かにやがていった。「二人は駕籠舁《かごか》き、一人は武辺者、そうして一人は若い女……」






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