国枝史郎「名人地獄」(053) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(53)

    妖艶たる九郎右衛門の娘

 この中にあってお艶ばかりは、太陽のように輝いていた。美しい縹緻《きりょう》はその母から、大胆な性質はその父から、いずれも程よく遺伝されていた。そうして彼女の美しさは、清楚ではなくて艶麗であった。もし一歩を誤れば、妖婦になり兼ねない素質があった。肉付き豊かなそのからだは、雪というより象牙のようで、白く滑らかに沢《つや》を持っていた。涼しい切れ長の情熱的の眼、いつも潤おっている紅い唇、厚味を持った高い鼻、笑うたびに靨《えくぼ》の出る、ムッチリとした厚手の頬……そうして声には魅力があって、聞く人の心を掻きむしった。
 いつぞや駕籠から顔を出し、ニッと銀之丞へ笑いかけたのは、このお艶に他ならない。
 そうして丑松をそそのかし、例の「あ」と「い」の紙飛礫《かみつぶて》を、投げさせたのも彼女であった。彼女にいわせるとその「あい」は、「愛」の符牒だということであった。つまり彼女は銀之丞に、一目惚れをしたのであった。そうしてそういう芝居染みた、大胆不敵な口説き方をして、思う男を厭応なしに、引き付けようとしたのであった。
 ところが人々の噂によると、その美しいお艶に対し、醜いみつくちの丑松が、恋しているということであった。これはもちろん銀之丞の心を、少なからず暗くはしたけれど、しかし信じようとはしなかった。「まさか」と彼は思うのであった。
 銀之丞ほどの人物も、お艶の美しさには勝てなかった。近代的の人間だけに、お艶のような変り種には、一層心を引き付けられた。強烈な刺戟、爛《ただ》れた美、苦痛にともなう陶酔的快楽! そういう物にあこがれる彼には、お艶のような妖婦型の女は、何よりも好もしい相手であった。
 で、彼は文字通り、恋の奴隷となり下がってしまった。
 やがて初冬がおとずれて来た。岸に打つ浪が音を高め、沖から吹いて来る潮風が、肌を刺すように寒くなった。銚子港の寂れる季節が、だんだん近寄って来たのであった。
 敵は襲って来なかった。で別荘は平和であった。無為《むい》の日がドンドンたって行った。
 とはいえその間怪しいことが、全然なかったとはいわれなかった。ある朝、どこから投げ込んだものか、一通の手紙が東側の、出邸の畔《ほとり》に落ちていた。書かれた文字は簡単で、「図面を渡せ」とあるばかりであった。でもちろん銀之丞には、なんのことだかわからなかった。だがしかし九郎右衛門には、恐らくその意味がわかったのであろう、さっとばかりに顔色を変えた。それから数日たった時、またも手紙が投げ込まれた。「鍵を渡せ」というのであった。
「いよいよ敵が逼《せま》って来た。警戒警戒、警戒しなければならない」
 九郎右衛門はこういった。しかしその後は変ったこともなく、またも無為に日が経った。と、またもや一通の手紙が邸の内に落ちていた。
「観世銀之丞よ。早く立ち去れ」
 こうその手紙には書いてあった。
 これには銀之丞も仰天したが、しかし恐れはしなかった。
「うん、面白い、張り合いがある」かえってこんなように思ったものであった。
 変な様子をした二、三人の者が、邸の周囲をさまよったり、夜陰堀の中へ石を投げたり、突然大勢の笑い声が、明け方の夢を驚かしたり、そういったような細々しい変事は、幾度となく起こっては消えた。
 だが攻めては来なかった。で、邸内の人々は、次第にそれに慣れて来た。だんだん油断をするようになった。
 お艶とそうして銀之丞との恋は、この間にも進歩した。
 ところで二人のその恋を、快く思わない人間が、邸の内に一人あった。醜い例の丑松で、彼は内々蔭へまわっては、二人の悪口をいうらしかった。しかし恋する二人にとっては、そんなことは苦にもならず、問題にしようともしなかった。
 こうしてまた日が経って、やがて初雪が降るようになった。






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