国枝史郎「名人地獄」(055) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(55)

    家斉《いえなり》将軍と中野碩翁《せきおう》

[#ここから4字下げ]
赤い格子に黒い船
ちかごろお江戸は恐ろしい
[#ここで字下げ終わり]

 こういう唄が流行《はや》り出した。
 十数年前にはやった唄で、それがまたもやはやり出したのであった。
 恐ろしい勢いで流行し、柳営にまで聞こえるようになった。
 時の将軍は家斉《いえなり》であったが、ひどくこの唄を気にかけた。
「不祥の唄だ、どうかしなければならない」
 こう侍臣に洩らしさえした。侍臣達はみんな不思議に思った。名に負う将軍家斉公ときては、風流人としての通り者であった。どんなはやり唄がはやろうと、気にかけるようなお方ではない。ところがそれを気にかけるのであった。
「珍らしいことだ。不思議だな」こう思わざるを得なかった。
 ある日お気に入りの中野碩翁《なかのせきおう》が、ご機嫌うかがいに伺候した。
「おお播磨か、機嫌はどうだな」将軍の方から機嫌をきいた。
「変ったこともございませんな」
 碩翁の方でも友人づきあいであった。
 この二人の仲のよさは、当時有名なものであった。というのも碩翁の養女が、将軍晩年の愛妾だからで、もっとも碩翁その人も一個変った人物ではあった。才智があって大胆で、直言をして憚らない。そうして非常な風流人で、六芸十能に達していた。だから家斉とはうま[#「うま」に傍点]があった。で二人の関係は主従というよりも友達であった。
 身分は九千石の旗本で、たいしたものではなかったが、その権勢に至っては、老中も若年寄もクソを喰らえで、まして諸藩の大名など、その眼中になかったものである。
 したがって随分わがままもした。市井の無頼漢《ぶらいかん》を贔屓《ひいき》にしたり、諸芸人を近づけたりした。いわゆる一種の時代の子で、形を変えた大久保彦左衛門、まずそういった人物であった。
 賄賂《わいろ》も取れば請託《せいたく》も受けた。その代わり自分でも施しをした。顕職を得たいと思う者が、押すな押すなの有様で、彼の門を潜ったそうだ。
 悪さにかけても人一倍、善事にかけても人一倍、これが彼の真骨頭であった。恐れられ、憚られ、憎まれもした。とまれ清濁併せ飲むてい[#「てい」に傍点]の、大物であったことは疑いない。
「お前、聞いたろうな、あの唄を」家斉は早速いい出した。
「お前あいつをどう思うな?」
「厄介《やっかい》な唄でございますな」碩翁はこうはいったものの、厄介らしい様子もない。
「十数年前にはやった唄だ」
「そんな噂でございますな」
「海賊赤格子をうたった唄だ」
「ははあさようでございますかな」碩翁はちゃんと知っているくせに、知らないような様子をした。これが老獪なところであった。家斉をしていわせようとするのだ。
「そうだよ赤格子を唄った唄だよ。あの海賊めがばっこ[#「ばっこ」に傍点]した、十数年前にはやった唄だ」
「海賊の上に邪教徒だったそうで」
「うん、そうだ、吉利支丹だったよ」
「ただし噂によりますと、なかなか大豪《だいごう》の人間だったそうで」
「それに随分と学問もあった。吉利支丹的の学問がな」
「つまり魔法でございますかな」
「いいや、違う、その反対だ」
「反対というと? ハテ何んでしょうな?」
「実際的の学問なのさ。うん、そうだ科学とかいった」
「科学? 科学? こいつ解らないぞ」
「建築術なんかうまかったそうだ」
「建築術? これは解る」
「それから色々の造船術」
「造船術? これもわかる」
「それから色々の製薬術」
「製薬術? これもわかる」
「大砲の製造、火薬の製造、そういう物もうまかったそうだ」
「恐ろしい奴でございますな」
「学問があって大豪で、それで海賊というのだから、随分ととらえるには手古摺《てこず》ったものだ」
「それはさようでございましょうとも」
「その上神出鬼没と来ている」
「さすがは名誉の海賊で」
「何しろ船が別製だからな」
「自家製造の船なのでしょうな」
「うん、そうだ、だから困ったのさ。……その上、いつも日本ばかりにはいない」
「ははあ、海外を荒らすので」
「支那、朝鮮、南洋諸島……」
「痛快な人間でございますな」
「海賊係りの役人どもも、これには全く手古摺ったものだ」
「それでもとうとう大坂表で、とらえられたそうでございますな」
「大坂の役人めえらいことをしたよ」
「どうやら万事大坂の方が、手っ取り早いようでございますな」
「莫迦《ばか》をいえ、そんなことはない」
 家斉はここで厭な顔をした。
「で、さすがの大海賊も、処刑されたのでございますな」
「ところが」と家斉は声をひそめ、「それがそうでないのだよ」
「それは不思議でございますな」これは碩翁にも意外であった。
「もっとも訴訟の面《おもて》では、処刑されたことになっている」
「では、事実は異いますので」
「きゃつ[#「きゃつ」に傍点]は今でも生きている筈だ」
「とんと合点がいきませんな」
「というのは外でもない。命乞いをした人間がある」
「しかし、さような大海賊を。……」いよいよ碩翁には意外であった。
「いや、さような海賊なればこそ、命乞いをしたのだよ」
「とんと合点がいきませんな」
「とまれきゃつ[#「きゃつ」に傍点]は生きている筈だ」






[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送