国枝史郎「名人地獄」(056) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(56)

    文庫から出した秘密状

「恐ろしいことでございますな」
「ただし南洋にいる筈だ。いや、いなければならない筈だ」
「ははあ、南洋にでございますか」
「国内に置いては危険だからな」
「申すまでもございません」
「しかるにきゃつめ、最近に至って、日本へ帰って来たらしい」
「どうしてお解りでございますな」
「赤い格子に黒い船……こういう唄がはやっているからよ。……それにこの頃犬吠付近で、よく荷船が襲われるそうだ」
「それは事実でございます」
「だから、俺は、そう睨んだのさ」
「こまったことでございますな」
「どうでもこれはうっちゃっては置けぬ」
「なんとか致さねばなりますまい」
「きゃつがこの世に生きているについては、この家斉、責任がある」
「これはこれはどうしたことで」碩翁すっかり面喰らった。
「きゃつの命を助けたのは、他でもない、このおれだ」
「あなた様が? これはこれは!」
「おれはその頃は野心があった。海外に対する野心がな。で、きゃつを助けたのさ。その素晴らしい科学の力、その素晴らしい海外の知識、それをムザムザ亡ぼすのが、おれにはどうにも惜しかったからな」
「これはごもっともでございます」
「で、南洋へ追いやったのさ、ただし、その時約束をした」
 手文庫をあけて取り出したのは、文字を書いた紙であった。
「これがきゃつの書いたものだ」
「ははあ、なんでございますな?」
「民間でいう書証文《かきしょうもん》だ」
「妙なものでございますな」
「これをきゃつに見せてやりたい」
「何かの役に立ちますので」
「きゃつがほんとうの勇士なら、赤面するに相違ない。そうして日本を立ち去るだろう」
「手渡すことに致しましょう」
「だが、どうして手渡したものか」
「きゃつの根拠を突き止めるのが、先決問題かと存じます」
「だが、どうして突き止めたものか」
「海賊係りを督励《とくれい》し……」
「駄目だよ、駄目だよ、そんなことは」
 駄々っ子のように首を振った。
「まさか海賊の張本へ、俺から物を渡すのに、幕府の有司は使えないではないか」
「これはいかにもごもっともで」
「どうだ、民間にはあるまいかな?」
「は、なんでございますか?」
「忍びの術の名人とか、それに類した人物よ」
 碩翁はしばらく考えたが、ポンと一つ手を拍《う》った。
「幸い一人ございます」
「おおあるか、何者だな?」
「郡上平八と申しまして、与力あがりにございます」
「うん、そうか、名人かな」
「探索にかけては当代一人、あだ名を玻璃窓と申します」
「ナニ、玻璃窓? どういう意味だ?」
「ハイ、見とおしの別名で」
「見とおしだから玻璃窓か、なるほど、これは名人らしい」
「命ずることに致しましょう」
「俺からとあっては大仰になる。お前の名義で頼んでくれ」
「その点如才《じょさい》はございません」
 やがて碩翁は退出した。
 退出はしたが碩翁は、少なからず肝をひやした。いかに我がままが通り相場とはいえ、国家を毒する大賊を、将軍たるものが助けたとあっては、上《かみ》ご一人に対しても、下《しも》万民に対しても、申し訳の立たない曲事であった。
「これが世間へ洩れようものなら、どんな大事が起ころうもしれぬ。早く手当をしなければならない」――で倉皇《そうこう》として家へ帰った。






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