国枝史郎「名人地獄」(059) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(59)

    さすがの玻璃窓行きづまる

 聞き覚えある鼓であった。忘れられようとしても忘れない、例の鼓の音であった。
 ポンポンポン! ポンポンポン!
 あたかも彼を嘲笑うように、舞台一杯に鳴り渡った。
「これはいけない」と平八は、思わず耳を手で抑えた。「こんな筈はない。こんな筈はない。こんなところで、あの鼓が、こんなにおおっぴらに鳴る筈がない! どうかしている、俺の耳は!」
 いやいや決して彼の耳が、どうかしているのではないのであった。間違いもなくあの鼓が、元気よく鳴り渡っているのであった。
 もう見ているに耐えられなかった。で、平八は小屋を出た。これは実際彼にとっては、予期以上の痛事《いたごと》であった。
 打ち拉《ひし》がれた平八は、両国橋の方へ辿って行った。雪催《ゆきもよ》いの寒い風が、ピューッと河から吹き上がった。「おお寒い」と呟いたとたん、彼の理性が回復された。橋の欄干へ体をもたせ、河面へじっと眼をやりながら、彼は考えをまとめようとした。
「何んでもない事だ、何んでもない事だ」彼は自分へいい聞かせた。「あらゆる浮世の出来事は、成るようにして成ったものだ。不合理のものは一つもない。よし、一つ考えてみよう。……最初に鼓を聞いたのは、今年の春の雪の夜で、そうしてその場に落ちていたのは、鬘下地の切り髪であった。で、切り髪と鼓とは、深い関係がなければならない。さて、ところで、鼓の音を、二度目に俺が聞いたのは、池ノ端の界隈であった。そうしてその時は鼓賊めが、確かに鼓を打っていた筈だ。しかしいよいよとらえてみれば、能役者観世銀之丞であった。ううむ、こいつが判らない」
 ここまで考えて来て平八は、行きづまらざるを得なかった。
 彼の考えを押し詰めて行けば、能役者観世銀之丞が、鼓賊でなければならなかった。
「いやいや断じてそんなことはない」
 ぼやけた声でこういうと、彼はトボトボとあるき出した。彼はスッカリまいってしまった。精も根も尽きてしまった。

 その日も暮れて夜となった時、彼は自宅へ帰って来た。と、全く意外なことが、彼の帰りを待ちかまえていた。
 碩翁様からの使者であった。
「はてな?」
 と彼は首を傾《かし》げた。
 役付いていた昔から、碩翁様には一方ならず、彼は恩顧を蒙っていた。役目を引いた今日でも、二人は仲のよい碁敵《ごがたき》であった。
「わざわざのお使者とは不思議だな」
 怪しみながら衣服を改め、使者に伴われて出かけて行った。

 彼が自宅へ帰ったのは、夜もずっと更けてからであったが、彼はなんとなくニコツイていた。ひどく顔にも活気があった。
 彼は家の者へこんなことをいった。
「俺はあすから旅へ出るよ。鼓賊なんか七里けっぱい[#「けっぱい」に傍点]だ。もっともっと大きな仕事が、この俺を待っているのだからな。」






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