国枝史郎「名人地獄」(060) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(60)

    南無幽霊頓証菩提

 隅田のほとり、小梅の里。……
 十一月の終り頃。弱々しい夕陽が射していた。
 竹藪でしずれる[#「しずれる」に傍点]雪の音、近くで聞こえる読経の声、近所に庵室《あんしつ》でもあるらしい。
 古ぼけた百姓家。間数といっても二間しかない。一つの部屋に炉が切ってあった。
 雪を冠った竹の垣、みすぼらしい浪人のかり住居。……
 美男の浪人が炉の前で、内職の楊枝《ようじ》を削っていた。あたりは寂然《しん》と静かであった。
「少し疲労《つか》れた。……眼が痛い。……」
 茫然と何かを見詰め出した。
「ああきょうも日が暮れる」
 また内職に取りかかった。
 しずかであった。
 物さびしい。
 ポク、ポク、ポク、と、木魚の音。……
 夕暮れがヒタヒタと逼って来た。
 隣りの部屋に女房がいた。昔はさこそと思われる、今も美しい病妻であった。これも内職の仕立て物――賃仕事にいそしんでいた。
 ふと女房は手を止めた。そうして凝然と見詰め出した。あてのないものを見詰めるのであった。……が、またうつむいて針を運んだ。
 サラサラと雪のしずれる音。すっかり夕陽が消えてしまった。ヒタヒタと闇が逼って来た。
 浪人は一つ欠伸《あくび》をした。それから内職を片付け出した。
 と、傍らの本を取り、物憂そうに読み出した。あたりは灰色の黄昏《たそがれ》であった。
「何をお読みでございます?」
「うん」といったが元気がない。「珍らしくもない、武鑑《ぶかん》だよ」
 二人はそれっきり黙ってしまった。
 と、浪人が誰にともつかず、
「どこぞへ主取りでもしようかしらん」
 しかし女房は返辞をしない。
 浪人は武鑑をポンと投げた。
「だが仕官は俺には向かぬ」
「それではおよしなさりませ」女房の声には力がない。むしろ冷淡な声であった。
「やっぱり俺は浪人がいい」浪人の声にも元気がない。
 女房は黙って考えていた。
 また雪のしずれる音。……
「その仕立て物はどこのだな?」
「お隣りのでございます」
「隣りというと一閑斎殿か」
 女房は黙って頷《うなず》いた。
 すると浪人は微笑したが、それから物でも探るように、
「あのお家は裕福らしいな?」
「そんなご様子でございます」
「ふん」と浪人は嘲笑った。「昔の俺なら見遁がさぬものを……」
 ――意味のあるらしい言葉であった。気味の悪い言葉であった。
 ここで二人はまた黙った。
 と、浪人は卒然といった。
「俺はすっかり変ってしまった」嘆くような声であった。
「妾《わたし》も変ってしまいました」女房の声は顫えていた。
「俺は自分が解らなくなった。……それというのもあの晩からだ」
 女房は返辞をしなかった。返辞の代りに立ち上がった。
「これ、どこへ行く。どうするのだ」
「灯でもとも[#「とも」に傍点]そうではございませんか」
 やがて行燈がともされた。茫《ぼう》っと立つ黄色い灯影《ほかげ》に、煤びた天井が隈取《くまど》られた。
 と、女房は仏壇へ行った。
 カチカチという切り火の音。……
 ここへも燈明が点《とも》された。
「南無幽霊頓証菩提《なむゆうれいとんしょうぼだい》。南無幽霊頓証菩提」
 ブルッと浪人は身顫いをした。
「陰気な声だな。俺は嫌いだ」
「南無幽霊頓証菩提」
「その声を聞くと身が縮《すく》む」
「どうぞどうぞお許しください。どうぞどうぞお許しください」
「止めてくれ! 止めてくれ!」
「妾はこんなに懺悔しています。どうぞ怨んでくださいますな」
 ザワザワと竹叢《たけむら》の揺れる音。……
 どうやら夜風が出たらしい。






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