国枝史郎「名人地獄」(062) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(62)

    亡魂のうたう追分節

「妾はイヤでございます」
「今の俺達は食うにも困る。それはお前も知っている筈だ。……なにもむずかしいことはない。ただ、笑って見せてやれ」
「昔の妾でございましたら……」
「俺から頼む、笑って見せてやれ」
「妾には出来そうもございません」
「そこを俺が頼むのだ」
「…………」
「ではいよいよ不承知か! そういうお前は薄情者か!」
 ポキリポキリと枯れ枝を折り、それを炉の火へくべ[#「くべ」に傍点]ながら、美男の浪人はいいつづけた。
「落ち目になれば憐れなものだ。女房にさえも馬鹿にされる。その女房とはその昔、殺すといえば殺されましょうと、こういい合ったほどの仲だったのに。が、それも今は愚痴か」
 浪人はムッツリと腕をくんだ。
「俺はお前と別れようと思う」浪人は憎々《にくにく》しくやがていった。「くらしが変れば心持ちも変る。……俺は成りたいのだ、明るい人間にな」
 女は肩をすくませた。
「それがあなたに出来ましたら……」
「別れられないとでも思うのか」
「あなたも妾も二人ながら、のろわれている身ではございませんか。二人一所におってさえ、毎日毎夜恐ろしいのに。……それがあなたに出来ましたら」
 夜がふけるにしたがって、隣家の騒ぎもしずまった。笑い声もきこえない。
 ボーンと鐘が鳴り出した。諸行無常の後夜《ごや》の鐘だ。
「酒はないか?」と浪人はいった。
「なんの酒などございましょう」
 きまずい沈黙が長くつづいた。耳を澄ませば按摩の笛。それに続いて夜鍋うどんの声……。
「こんな晩には寝た方がよい。ああせめてよい夢でも。……」
 枕にはついたが眠れない。
 犬の遠吠え、夜烏の啼《な》く音《ね》、ギーギーと櫓を漕ぐ音。……隅田川を上るのでもあろう。
 寂しいなアと思ったとたん、
[#ここから2字下げ]
西は追分東は関所……
[#ここで字下げ終わり]
 追分の唄が聞こえて来た。
「あッ」
 というと二人ながら、ガバと夜具の上へ起き上がった。
[#ここから2字下げ]
関所越えれば旅の空
[#ここで字下げ終わり]
「あなた!」と女房は取り縋った。
「うむ」といったが、耳を澄ました。
「あの唄声でございます!」
「いやいやあれは……人間の声だ!」
「甚三の声でございます!」
「そっくりそのまま……いや異う!」
「亡魂の声でございます!」
「待て待て! しかし似ているなア」
[#ここから2字下げ]
碓井《うすい》峠の権現さまよ……
[#ここで字下げ終わり]
 だんだんこっちへ近寄って来た。
[#ここから2字下げ]
わしがためには守り神
[#ここで字下げ終わり]
 もう門口へ来たらしい。
 浪人は刀をツト握った。そっと立つと夜具を離れ、足を刻むと戸口へ寄った。
[#ここから2字下げ]
追分、油屋、掛け行燈に
[#ここで字下げ終わり]
 聞き澄まして置いて浪人は、そろそろと雨戸へ手をかけた。
[#ここから2字下げ]
浮気ごめんと書いちゃない
[#ここで字下げ終わり]
「うん」というとひっ外した。抜き打ちの一文字、横へ払った気合いと共に、跣足《はだし》[#「跣足」は底本では「洗足」]で飛び下りた雪の中、ヒヤリと寒さは感じたが、眼に遮る物影もない。






[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送