国枝史郎「名人地獄」(063) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(63)

    忽然響き渡る鼓の音

 今年の最初の雪だというに、江戸に珍らしく五寸も積もり、藪も耕地も白一色、その雪明りに照らされて、遠方《おちかた》朦朧《もうろう》と見渡されたが、命ある何物をも見られなかった。
 行燈の灯が消えようとした。
 その向こう側に物影があった。
「誰!」
 といいながら隙《す》かして見たが、もちろん誰もいなかった。で、女房は溜息をした。
 鼬《いたち》が鼠を追うのであろう、天井で烈しい音がした。バラバラと煤が落ちて来た。
 すると今度は浪人がいった。
「肩から真っ赤に血を浴びて、坐っているのは何者だ!」
 そうして行燈の向こう側を、及び腰をして透かして見たが、
「ハ、ハ、ハ、何んにもいない」
 空洞《うつろ》のような声であった。
 二人はピッタリ寄り添った。しっかり手と手が握られた。二人に共通する恐怖感! それが二人を親しいものにした。
 冬なかばの夜であった。容易なことでは明けようともしない。丑満《うしみつ》には風さえ止むものであった。鼠も鼬も眠ったらしい。塵の音さえ聞こえそうであった。
 と、その時、ポン、ポン、ポンと、鼓《つづみ》の音が聞こえて来た。
 聞き覚えのある音であった。追分で聞いた鼓であった。江戸の能役者観世銀之丞が、追分一杯を驚かせて、時々調べた鼓の音だ。いいようもない美音の鼓、どうしてそれが忘られよう。
 しかし打ち手は異うらしい。正調でもなければ乱曲でもない。それは素人の打ち方であった。
 しかも深夜の静寂を貫き、一筋水のように鳴り渡った。
 誰が調べているのだろう? 何んのために調べているのだろう? それも厳冬の雪の戸外で!
 ポン、ポン、ポン!
 ポン、ポン、ポン!
 一音、一音が一つ一つ、冬夜の空間へ印を押すように、鮮やかにクッキリと抜けて響いた。
 と、鼓は鳴り止んだ。
 二人はホーッと溜息をした。
 鼓の鳴り止んだその後は、鳴る前よりも静かになった。鳴る前よりも寂しくなった。
 そうして凄くさえ思われた。
 二人はビッショリ汗をかいていた。
 その凄さ、その寂しさ、その静かさを掻き乱し、「泥棒!」という声のひびいたのは、それから間もなくのことであった。
 戸のあく物音、走り廻る足音。「こっちだ」「あっちだ」「逃げた逃げた」詈《ののし》る声々の湧き上がったのも、それから間もなくのことであった。
「そうか」
 と浪人ははじめていった。「噂に高い鼓賊であったか」
「お気の毒に、一閑斎様は、能面でも取られたのでございましょう」
「ふん、それもいいだろう。金持ちの馬鹿道楽、あらいざらい盗まれるがいい」
 賊は首尾よく逃げたらしい。
 やがて人声もしずまった。
 また静寂が返って来た。
 サラサラと崩れる雪の音。……
「俺は鼓賊が羨《うらや》ましい」
 呟《つぶや》くと同時に浪人は、刀を提げて立ち上がった。
「どちらへお越しでございます?」
「俺か」というと浪人は、顔に殺気を漂わせたが、「仕事に行くよ。仕事にな。……今夜は仕事が出来そうだ」
「どうぞお止めくださいまし」
「ふん、何故な? なぜいけない」
「後生をお願いなさいませ」
「うん後生か。それもよかろう。が、どうして食って行くな」
「饑《う》え死のうではございませんか」
「死ぬには早い。俺はイヤだ」
「妾は死にそうでございます。……殺されそうでございます。……自分で縊《くび》れて死のうもしれぬ。……」
「死にたければ死ぬもよかろう」
「あなた!」といって取り縋った。「ひと思いに殺してくださいまし」
「そんなに俺の手で死にたいか」
 浪人は鼻でセセラ笑ったが、「そうさ、いずれはそうなろうよ」縋られた手を振り払い、「俺は行くのだ。行かなければならない。鼓賊が俺をそそのかしてくれた。鼓賊が俺を勇気づけてくれた」
「悪行《あくぎょう》はおやめくださいまし」
「どうしてきょうの日を食って行く」
「ハイ、この上は、この妾が……」
 女房は袂《たもと》で顔を蔽うた。
「うん、やるつもりか! 美人局《つつもたせ》!」
「ハイ、夜鷹《よたか》でも、惣嫁《そうか》でも」
「そんなことではまだるッこいわい!」
 ポンと足で蹴返すと、浪人はツト外へ出た。
 ……開けられた門口《かどぐち》から舞い込んだのは、風に捲かれた粉雪であった。
 女房は門の戸を閉じようともしない。
 遠くで追分が聞こえていた。
 今の雪風に煽られたのか、炉の埋《うず》み火が燃え上がった。
 サラサラと落ちる雪の音。……
「身を苦しめるが罪障消滅。……もうあの人は帰って来まい。……ああまた追分が聞こえて来る」
 耳を澄まし眼を据えた。
 木立ちに風があたっていた。
 どこぞに遠火事でもあると見えて、ひとつばんが鳴っていた。カーンと一つ聞こえて来ては、そのまましんと静まり返り、ややあってまたもカーンと鳴った。
 女房はヨロヨロと立ち上がった。
 そうして部屋の中を廻り出した。
「お前に習った信濃追分、お前が唄うなら妾も唄う。……『信州追分桝形の茶屋で』……妾が悪うございました。どうぞかんにんしてくださいまし。……『ほろりと泣いたが忘らりょか』……妾が悪うございました。そんなに怨んでくださいますな。……おおおおだんだん近寄って来る!」
 振り乱した髪、もつれた裳《もすそ》、肋《あばら》の露出したあお白い胸。……懊悩地獄《おうのうじごく》の亡者であった。
 手を泳がせ、裾を蹴り、唄いながら女房は部屋を廻った。
 富士甚内とお北との生活。……






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