国枝史郎「名人地獄」(065) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(65)

    甚内の喧嘩の得手

 これには当然な理由があった。というのはその師匠が、千葉周作だからであった。
 千葉道場へ入門してから、すでに三月経っていた。
 初め敵討ちの希望をもって、千葉道場を訪《おと》ずれて、武術修行を懇願するや、周作はすぐに承知した。
「どうやら話の様子によると、富士甚内というその人間、武術鍛練の豪の者のようだ。ところでお前はどうかというに、以前は馬方今は水夫《かこ》、太刀抜く術《すべ》も知らないという。ちとこれは剣呑《けんのん》だな。なかなか武術というものは、二年三年習ったところで、そう名人になれるものではない。しかるに一方敵とは、いつなん時出逢うかもしれぬ。今のお前の有様では返り討ちは必定だ。……そこでお前に訊くことがある。どうだ、喧嘩などしたことがあろうな?」
「へえ」といったが甚内は、びっくりせざるを得なかった。「喧嘩なら今でも致しますので。馬方船頭お乳《ち》の人と、がさつな物の例にある、その馬方なり船頭なりが、私の稼業でございますので。」
「そこで喧嘩は強いかな?」
「へえ」といったが甚内は、いよいよ変な顔をした。「強いつもりでございます」
「得手は何んだな? 喧嘩の得手は?」「へえ、得手とおっしゃいますと?」「突くとか蹴るとか撲るとか、何か得意の手があろう」「ああそのことでございますか。へえ、それならございます。石を投げるのが大得意で」「石を投げる? 石飛礫《いしつぶて》だな。いやこれは面白い。どうだタマにはあたるかな?」
 すると甚内は不平顔をしたが、
「へえ、なんでございますかね?」「石飛礫だよ、タマにはあたるかな」「いえ、タマにはあたりません」「ナニあたらないと、それは困ったな」「へえタマにはあたらないので、その代りいつもあたります」「アッハハハ、そういう意味か」
 千葉周作は笑い出してしまった。
「ところでどういうところから、そういう変り手を発明したな?」「それには訳がございます。つまり撲られるのがイヤだからで」「それは誰でもイヤだろう」「私は特別イヤなので。撲られると痛うございます」「うん、そういう話だな」「それに撲られると腹が立ちます」「礼をいって笑ってもいられまい」「ところが取っ組んでしまったら、一つや二つは撲られます。それが私にはイヤなので。そこでソリャコソ喧嘩だとなると、二間なり三間なりバラバラと逃げてしまうのでございますな。それから小石を拾うので。そうして投げつけるのでございますよ。へえ、百発百中で、それこそ今日まで、一度だって、外れたことはございません」「おおそうか、それは偉いな」
 こういうと周作は立ち上がった。「甚内、ちょっと道場へ来い。……これ誰か外へ行って小石を二、三十拾って来い」
 で、道場へやって来た。
「さて、甚内、お前の足もとに、小石が二、三十置いてある。それを俺に投げつけるがいい」
「へえ」といったが甚内は、困ったような顔をした。
「それは先生様いけません」
「なぜな?」と周作は笑いながら訊いた。
「もってえねえ話でございますよ」
「そうさ、一つでも中《あた》ったらな」「では中《あた》らねえとおっしゃるので?」「ひとつお前と約束しよう。お前の投げた石ツブテが、一つでも俺に中ったら、この道場をお前に譲ろう」「こんな立派な道場をね。……そうして先生はどうなされます」「俺か、アッハハハ、そうしたら、武者修行へでも出るとしようさ」「それはお気の毒でございますな」「そうきまったら投げるがいい」






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