国枝史郎「名人地獄」(004) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(04)

    横歩きの不思議な足跡?

「それから駕籠へ近寄りました。その証拠には同じ足跡が、これこのように桜の木蔭から、駕籠の捨ててあった所まで、続いているではござらぬかな」「なるほどなるほど続いておりますな。そうしてそれからどうしましたな?」「駕籠から女を引き出しました」「さっき聞こえたは女の悲鳴、これはいかさまごもっとも。駕籠にいたのは女でござろう」「いやそればかりではございません。女の証拠はこれでござる」
 平八は雪の上を指差した。たびをはいた華奢《きゃしゃ》な足跡が、幾個《いくつ》か点々とついていた。
「ははあなるほど、女の足跡だ。が、子供の足跡ともいえる」一閑斎は呟いた。
「よろしい、それではもう一つ、動かぬ証拠をお目に掛けよう」平八は懐中へ手を入れると、さっき拾った黒い物を、一閑斎の前へ突き出した。
「おやおやこれは女の頭髪《かみのけ》……」
「根もとから一太刀できり落とした、刀の冴えをご覧《ろう》じろ。きり[#「きり」に傍点]手は武辺者に相違ござらぬ。しかも非常な手練の武士だ。……ところでその髪の髷《まげ》の形を、一閑老にはご存知かな?」「勝山《かつやま》でなし島田《しまだ》でなし、さあ何でござろうな」「その髷こそ鬘下地《かつらしたじ》でござる」「鬘下地? ははアこれがな」「したがって女は小屋者《こやもの》でござる。女義太夫か女役者でござる」「で、その女はどうしましたな? 締め殺されて川の中へでも、投げ込まれたのではありますまいかな?」「いや、それにしてはもがいた跡がない。人一人縊《くび》れて死のうというのに、もがかぬという訳はない」「切られもせず縊られもせず、しかも姿が見えないとは、天へ昇ったか地へ潜ったか、不思議な事があればあるものだ」「駕籠へ乗って水神の方へ急いでひき上げて行ったのでござるよ」郡上平八は自信を持っていった。
「それには証拠がござるかな?」
「さよう、やはり足跡だが、まずこっちへ」といいながら、川に向かった土手の腹を、川の岸まで下りて行ったが、低く提灯を差し出すと、それで雪の上を照らしたものである。二つずつ四つの足跡が、規則正しい間隔を保って、川下の方へついていた。いうまでもなく駕籠舁きの足で、彼らは駕籠を担《かつ》ぎながら、堤の下を川に添い、水神の方へ行ったものと見える。一閑斎と平八とは、川下の方へ足跡を追って、十間余りも行って見た。すると足跡が見えなくなった。しかしそれは消えたのではなく、土手の腹を堤の上へ、同じ足跡がついていた。駕籠を担いだ駕籠舁きが、そこから堤へ上ったものであろう。そこで二人も堤へ上った。はたして同じ足跡が、堤の上を規則正しく水神の方へついていた。
「おや!」と突然一閑斎は不思議そうに声を張り上げた。「ここに見慣れない足跡がござる」
 いかにも見慣れない足跡が、駕籠舁き二人の足跡に添って、一筋水神の方へついていた。
「さよう、見慣れない足跡がござる」平八の声は沈痛であった。「これこそ鼠小僧と想像される、ある一人の足跡でござるよ」「おおこれがそれでござるかな」「よくよくご覧なさるがよい。奇妙な特徴がございましょうがな」「どれ」というと一閑斎は、顔を地面へ近づけた。「や、これは不思議不思議、蟹《かに》のように横歩きだ!」
「その通り」と平八は、やはり沈痛の声でいった。「その横歩きが特徴でござる。……すべて横歩きは縦歩きと比べて――すなわち普通の歩き方と比べて、ほとんど十倍の速さがござる。昔から早足といわれた者は、おおかた横歩きを用いましたそうな」「ほほうさようでございますかな」
「ところで」と平八は力をこめ、「この地点から水神へ向けて、一筋ついている足跡の外に、さらに一筋同じような、横歩きの足跡のついているのが、お解りではあるまいかな」「さようでござるかな、どれどれどこに?」一閑斎は雪の地面を、改めて仔細《しさい》に調べて見た。はたして足跡はついていた。今も降っている雪のために、おおかた消されてはいたけれど、その足跡は水神の方から、こっちへあるいて来たものらしい。
「つまり」と平八は説明した。「鼠小僧と想像される、ある一人の人間が、水神の方から大急ぎで、横歩きでここまで来たところ、十間のあなたで一組の男女が、何やら悶着《もんちゃく》を起こしている。そこでその男はここに佇《たたず》んで、しばらく様子を窺《うかが》ったあげく、やって来た駕籠に付き添って、元来た方へ引き返して行った。……とこう想像を廻《めぐ》らしたところで、さして不自然ではござるまいがな」





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