国枝史郎「名人地獄」(070) (めいじんじごく)
国枝史郎「名人地獄」(70)
町奉行所の与力たち
「それは感心でございますな」
こういいながら平八は、またも手帳へ書きつけた。
「つまり彼は威嚇をもって、相手を慴伏《しょうふく》させたのだ」将監は先へ語りつづけた。「こいつと目差した船があると、まずその進路を要扼《ようやく》し、ドンと大砲をぶっ放すのだ。だがそいつは空砲だ。つまり停まれという信号なのだ。それで相手が停まればよし、もしそれでも停まらない時には、今度は実弾をぶっ放すのだ。が、それとてもあてはしない。相手の前路へ落とすのだ。これが頗《すこぶ》る有効で、大概の船は顫えあがり、そのまま停まったということだ。しかしそれでも強情に、道を転じて逃げようとでもすると、その時こそは用捨《ようしゃ》なく、三発目の大砲をぶっ放し、沈没させたということだ」
「一発は空砲、二発は実弾、ただしそのうち一発は、わざとあてずに前路へ落とす、つまりかようでございますな」
平八は四たび書きつけた。
「もはや充分でございます」
お礼をいって邸を出ると、平八はふたたび駕籠へ乗った。
「駕籠屋、急げ! 数寄屋町だ!」
「へい」
と駕籠屋は駈け出した。
「よろしい、下ろせ」
と駕籠を出たところは、南町奉行所の門前であった。
裏門へ廻ると平八は、ズンズン内《なか》へはいって行った。
与力詰所までやって来ると、顔見知りの与力が幾人かいた。
「いよう、これは郡上氏」
「いよう、これは玻璃窓の旦那」
「いよう、これは無任所与力」
などといずれも声を掛けた。それほどみんなと親しいのであった。
「玻璃窓の爺《おやじ》の出張だ。大事件が起こったに違いない、うかつにノホホンに構えていて、抜かれでもしたら不面目、あぶねえあぶねえ、用心用心」
なかにはこんなことをいう者もあった。
平八はニヤリと笑ったばかり、一人の与力へ眼をつけると、
「石本氏、ちょっとお顔を」
「なんでござるな」
と立って来るのを、平八は別室へ誘《いざな》った。
「秘密に書き上げを拝見したいが」
「ははあ、書き上げ? どうなされるな?」
「いやちょっと、ご迷惑はかけぬ」
「貴殿のこと、よろしゅうござる」
持って来た書き上げをパラパラめくると、二、三平八は書きとめた。
「そこで、もう一つお願いがござる。……貴殿のお名を拝借したい」
「いと易いこと、お使いなされ」
また平八は駕籠へ乗った。
「日本橋だ、河岸へやれ」
下りたところに廻船問屋、加賀屋というのが立っていた。
「許せよ」
と平八はズイとはいった。
「これはおいでなさいませ。ええ、何か廻船のご用で?」
店の者は揉み手をした。
「いやちょっと主人に逢いたい」
「どんなご用でございましょう?」迂散《うさん》らしく眼をひそめた。
「逢えば解る、主人にそういえ」
「失礼ながらあなた様は?」
「南町奉行所吟味与力、石本勘十郎と申す者だ」
「へーい」
というと二、三人、奥へバタバタと駈け込んだ。それほどまでに吟味与力は、権勢のあったものである。
「どうぞお通りくださりますよう」
「そうか」というと郡上平八はズイと奥の間へ通って行った。
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