国枝史郎「名人地獄」(074) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(74)

    阪東米八と和泉屋次郎吉

 ここは両国の芝居小屋、阪東米八の楽屋であった。
 午後の陽《ひ》が窓からさしていた。あけ荷、衣桁《いこう》、衣裳、鬘《かつら》、丸型朱塗りの大鏡台、赤を白く抜いた大入り袋、南京繻子《なんきんじゅす》の大座布団、ひらいたままの草双紙、こういった物が取り乱されてあったが、女太夫の部屋だけに、ひときわ光景がなまめかしい。
「ねえ、お前さん、ねえ吉っあん、ほんとに気色が悪いじゃないか。妾《わたし》アつくづく厭になったよ」
 燃え立つばかりの緋縮緬《ひぢりめん》、その長襦袢《ながじゅばん》をダラリと引っかけ、その上へ部屋着の丹前を重ね、鏡台の前へだらしなく坐り、胸を開けて乳房を見せ、そこへ大きな牡丹刷毛で、ヤケに白粉《おしろい》を叩きつけているのは、座頭《ざがしら》阪東米八であった。年はおおかた二十五、六、膏《あぶら》の乗った年増盛り、大柄で肉付きよく、それでいて姿のぼやけないのは、踊りで体を鍛えたからであろう。肉太の高い鼻、少し大きいかと思われたが、それがかえって役者らしい。紅《べに》をさした玉虫色の口、それから剃り落とした青い眉、顔の造作は見事であったが、とりわけ眼立つのはその眼であって、上瞼《うわまぶた》が弓形をなし、下瞼が一文字を作った、びっくりするほど切れ長の眼は、妖艶婀娜《あだ》たるものであった。※[#「白+光」、204-4]々《こうこう》という形容詞が、そっくりそのままあてはまるような、光沢を持った純白な肌は、見る人の眼をクラクラさせた。
「妾アつくづく厭になったよ」くり返して彼女はこういった。
「いや俺も驚いた」
 こう合い槌を打ったのは、彼女にとっては旦那でもあり、且つは嬉しい恋人でもある、魚屋の和泉屋《いずみや》次郎吉であった。唐棧《とうざん》ずくめの小粋ななり、色の浅黒い眼の鋭い、口もとのしまった好男子で、年はそちこち四十でもあろうか、小作りの体は敏捷らしく、五分の隙もない人品であったが、座布団の上へ腹這いになり、莨《たばこ》をプカプカ吹かしていた。
「つぶてでなし手裏剣でなし、なんでいったいぶち抜いたものかな。看板と板壁とを突き通すなんて、ほんとにこいつ素晴らしい芸だ」
「そんなことどうでもよござんすよ。それより、妾癪《しゃく》にさわるのは、選《よ》りに選って妾の顔へ、あんな大きな穴をあけて……」
「ナーニそれとて曰《いわ》くはないのさ。あんまりお前が綺麗なので、それでいたずらをしたってやつさ」
「ヘン、おっしゃいよ、おためごかしを」
 米八は横目で睨む真似をした。
「そうはいうものの惜しいことをした。あれは俺から五渡亭《とてい》に頼んで、わざわざ描かせた看板だからな」
「そんなことどうでもよござんすよ」まだ米八は機嫌が悪い。「それに妾にはこの芝居、なんだか小気味が悪くってね」
「へえ、どうしてだい、おかしいね。いり[#「いり」に傍点]だってこんなにあるじゃないか」今度は次郎吉が不満そうにした。
「だって、あんまりなまなましいんですもの」
「なまなましいって? どうしてかい?」
「だってお前さんそうじゃないか。泥棒芝居の鼓賊伝、ところで主人公の鼓賊ときては、現在江戸を荒し廻っていて、お上に迷惑をかけてるんでしょう」
「うん、そうさ、だからいいのさ。つまり何んだ、はしりだからな。そうとも素敵もねえ際物《きわもの》だからな。……もっとも他にも筋はある」
「ええ、そりゃありますとも。追分唄いの甚三馬子だの、宿場女郎のお北だの、あくどい色悪《いろあく》の富士甚内だの。……」
「それから肝腎の探索がいらあ」
「ええ、見透しの平七老人」
「で、素晴らしくいい芝居さ」次郎吉はツルリと顎《あご》を撫でたが、にわかにズンと声を落とし、「実はおいらの道楽から行くと、その『見透しの平七』を『玻璃窓の平八』にしたかったのさ。だが、それじゃあんまりだからな。で、平七に負けてやったやつさ」
「おや変ですね、玻璃窓といえば、郡上の旦那じゃありませんか」米八は不思議そうに見返った。
「うん、そうさ、その旦那さ。あけすけにいえばこの芝居はだ、その玻璃窓に見せたいばっかりに、おいら筋立てをしたんだからな」






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