国枝史郎「名人地獄」(075) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(75)

    深い怨みの敵討ち

「その玻璃窓の旦那なら、おとつい観《み》に来たじゃありませんか」
「百も承知だ。待っていたんだからな。そこで早速秀郎の野郎に例の鼓を打たせたのさ。アッハハハ、いい気味だった。あの鼓を聞いた時の玻璃窓の爺《だんな》の顔といったら、今思い出しても腹がよじれる。いいみせしめ[#「みせしめ」に傍点]っていうやつさな」さもおかしいというように、揺《ゆ》り上げ揺り上げ笑ったものである。
 米八には意味がわからなかった。
「でもどうして玻璃窓の旦那に、こんどの芝居を見せたいんでしょう?」
「それか、それには訳がある。……ひらったくいうとまずこうだ。彼奴《きゃつ》、としよりの冷水《ひやみず》で、鼓賊を追っかけているんだよ。ところがさすがの名探索も、こんどばかりは荷が勝って、後手ばかり食らっているやつさ。それを俺は知ってるんだ。うん、そうさ、ある理由からな。ところで俺はあの爺《じじい》に五年前から怨みがあるんだ。で、そこで敵討ちよ。つまり彼奴《きゃつ》のトンマぶりを、そっくり芝居に仕組んだあげく、彼奴《きゃつ》の眼の前にブラ下げたって訳さ。胸に堪《こた》える五寸釘! そいつがこれだ。『名人地獄』だ!」
「どんな怨みだか知らないけれど、つまらない事をしたものね」米八は浮かない顔をした。
「それはそうと、ねえお前さん、秀郎さんの鼓賊のつくり、何から何までお前さんじゃないか」
「俺が注文したからよ」次郎吉はそこでニタリとした。
「どうしてだろう? ねえお前さん」
「それも玻璃窓に見せたかったからさ」
「なんだか妾《わたし》にゃあ解らない」きまずそうに眉をひそめ、「とにかく妾にゃあこの芝居は、気になることばかりで面白くないよ」
「それじゃ明日から芸題《げだい》替えだ」次郎吉は煙管《きせる》のホコを払い、「もう玻璃窓に見せたんだから、俺の目的はとげられたってものさ。いつ替えたって惜しかあねえ」
「アラそう、それじゃ替えようかしら」
「それがいい、つき替えねえ」
 米八はいくらか愁眉をひらき、チラリと鏡を覗いてから、次郎吉の方へ膝を向けた。
「まだあるのよ、気になることが」
「文句の多い立《たて》おやまさね」次郎吉はちょっとウンザリしたが、「おおせられましょう、お姫様、とこう一つ行くとするか」
「真面目にお聞きよ、心配なんだからね」
「おい、どうするんだ、邪慳《じゃけん》だなあ。煙管《きせる》ならそっちにあるじゃねえか」
「お前さんの煙管でのみたいのさ」
「へん、安手《やすで》な殺し文句だ」
「でも、まんざらでもないでしょうよ」
「こんどは押し売りと来やがったな。あッ、熱い! なにをしやがる!」
 左の頬を抑えたのは、雁首《がんくび》の先をおっつけられたからで。
「いい気味いい気味、セイセイしたよ」
「地震の後はどうせ火事だ。諦めているからどうともしなよ」
 ゴロリと次郎吉はあおむけになった。
「節穴《ふしあな》の多い天井だなあ。暇にまかせて数えてやるか。七ツ八ツ九ツ十」
「莫迦《ばか》にしているよ、呆れもしない」
「そのまた莫迦が恋しくて、離れられないというやつさ」
「いい気なものさ、しょってるよ」
「あっ、畜生、五十八もあらあ」
 とうとうみんな数えたらしい。






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