国枝史郎「名人地獄」(076) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(76)

    腑に落ちない色々の事

「ほんとにそうだよ」と米八は、何をにわかに考え出したものか、しみじみとしていい出した。
「どこがよくって惚れたのか、妾にゃまるっきり見当がつかない」
「オヤ、今度は恩にかけるのかい」
 次郎吉はもっけな顔をした。
「なあに、そうじゃないけれどね、お前さんのためにゃほんとにほんとに、髪まで切られているんだからね」
「おっと、そいつアいいっこなしだ」
 こうはいったが次郎吉も、これには多少こたえたらしい。
「どうだ、それでもすこしは伸びたか?」
「三月や半年で女の髪が、なんでそうそう伸びますかよ」米八は額で睨むようにした。
「あれは一生の失敗だった」むしろ次郎吉は慨然《がいぜん》と、「厭がるお前を無理にすすめ、一幕うったほどでもねえ、たいした儲けもなかったんだからな」
「罪もない観世様をそそのかし、色仕掛けで巻き上げたまでは、まあまあ我慢をするとして、ご親友だとかいう平手さんに、駕籠から雪の中へ引き出され、鼓を取られたあげくのはてに、ブッツリ髷を切られたんだもの、悪い役ったらありゃしない」
「あんまり来ようが遅いので、心配をして迎えに出たら、アッハハハ、あの活劇さ」
「助けにも来ず、薄情者! 思い出すと腹が立つよ」
「そっと仕舞《しま》って置くことさな。だが全くあの時は、見ていた俺さえ冷汗《ひやあせ》をかいた」
「今こそ笑って話すけれど、あの時妾《わたし》は殺されるかと思った」
「だがな、あんな時俺が出たら、騒ぎは大きくなるばかりさ。そこでゆっくり拝見し駕籠が来たので付き添って、茶屋へ行ってからは思う存分、可愛がってやったからいいじゃねえか」
「だがね」と米八は探るように、「どうしてお前さんはあの鼓を、そうまで苦心して欲しがったのだろう?」
「なに、そんなことはどうでもいい」
 次郎吉はヒョイと横を向いた。
「妾ア気がかりでならないんだよ」
「ふふん」というと舌なめずりをした。
「そうかと思うと今年の夏中、フイと姿を消したりしてさ」
「旅へ行ったのさ、信州の方へな」
「その旅から帰ったかと思うと、例の鼓を持っているんだもの」
「ナーニ、そいつあ観世さんから、相談ずくで譲って貰ったのさ」
「そりゃあそうだろうとは思うけれど、それから間もなく起こったのが、鼓泥棒の鼓賊なんだもの……」
「ふん、それがどうしたんだい?」
 次郎吉はギロリと眼をむいた。
「だから気が気でないんだよ」
 その時チョンチョンと二丁が鳴った。
「おやもう幕が開くんだよ。それじゃ妾は行かなけりゃならない」
「では俺もおいとまとしよう」
 次郎吉はポンと立ち上がった。
「オイ、はねたら飲みに行こうぜ」
「ええ」
 というと部屋を出た。
 チェッと次郎吉は舌打ちをしたが、
「あぶねえものだ、火がつきそうだ」
 ちょっとあたりを見廻してから、部屋を出ると廊下へかかり、裏梯子《うらばしご》を下りると裏口から、雪のたまっている往来へ出た。
 プーッと風が吹いて来た。
「寒い寒い、ヤケに寒い」
 チンと一つ鼻をかみ、
「さあて、どっちへ行ったものかな」
 あてなしにブラブラ歩き出した。がその眼には油断がない。絶えず前後へ気をくばっていた。






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