国枝史郎「名人地獄」(005) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(05)

    泥棒の嚏《くさめ》も寒し雪の夜半《よわ》

「それに相違ござるまい。細かい観察恐れ入りましたな」一閑斎はここに至って、すっかり感心したものである。
 二人の老人は堤の上を、もと来た方へ引き返して行った。もとの場所へ辿《たど》りつくと、「さて最後にお見せしたい物が、実はここにもう一つござる」こういいながら平八は、巨大な桜樹《おうじゅ》の根もとから、川とは反対に耕地《はたち》の方へ、土手の腹を下って行ったが、提灯で地面を振り照らすと、「ご覧なされ足跡が、土手下の耕地《はたち》を両国の方へ、走っているではござらぬかな。さて何者の足跡でござろう?」
 一閑斎は眼を近づけ、仔細に足跡を調べたが、
「どうやらこれは武辺者の……」「さよう、武辺者の足跡でござる。目的をとげた武辺者は、人に見られるのを憚《はばか》って、堤から飛び下り耕地を伝い、両国の方へ逃げたのでござる」
「そうして、武辺者の目的というは?」
「それがとんと分《わか》らぬのでござるよ」平八の声には元気がない。「五人の人間の行動は、あらかた足跡で分ったものの、その外のことはトンと分らぬ」「お前様ほどの慧眼《けいがん》にも、分らないことがござるかな?」「不可解の点が四つござる」「四つ? さようかな、お聞かせくだされ」
「鼠小僧と想像される男が、この場へ来かかったのは何のためか? 偶然かそれとも計っての事か?」「いかさまこれは分らぬわい」「頭髪《かみ》を切ったは何のためか? 威嚇《いかく》のためか意趣斬りか? これが第二の難点でござる。武辺者はいったい何者か? 浪人か藩士かその外の者か? これが三つ目の難点でござる」「そこで四つ目の難点は?」
「美音の鼓! 美音の鼓!」
「さようさ、鼓が鳴りましたな」
「誰が鼓を持っていたのか? 何のために鼓を鳴らしたのか? 誰が鼓を鳴らしたのか? その鼓はどこへ行ったか?」
「いやはやまるっきり分りませぬかな?」「かいくれ見当がつきませぬ」
 この時下男の八蔵が、突然大きな嚏《くしゃみ》をした。彼はいくらかおろかしいのであった。さっきから一人茫然《ぼうぜん》と雪中に立っていたのであった。下男の嚏が伝染《うつ》ったのでもあろう、一閑斎も嚏をした。
「これはいけない。風邪をひきそうだ。……そろそろ帰ろうではござらぬかな」
 しかし平八は返辞をしない。ただ一心に考えていた。
「玻璃窓の旦那、いかがでござる、そろそろ帰ろうではござらぬかな」例の皮肉を飛び出させ、一閑斎はまたいった。
 ようやく気がついた平八は、口もとへ苦笑を浮かべたが、「これは失礼、さあ帰りましょう」
 三人は耕地《はたち》を寮の方へ、大急ぎで帰って行った。
 とまた一閑斎は嚏《くしゃみ》をした。
「今夜は嚏のよく出る晩だ」平八は思わず笑ったが、「泥棒も嚏をした事であろう」
「何」というと一閑斎は、そのまま野良路へ立ち止まったが、「出来た! 有難い! 出来ましたぞ!」「ははあ何が出来ましたな」――「まずこうだ。……『泥棒の』と」「ははあなるほど『泥棒の』と」「『嚏も寒し』と行きましょうかな」「『嚏も寒し』と、行きましたかな」「『雪の夜半』」「『雪の夜半』」「何んと出来たではござらぬかな」「泥棒の嚏も寒し雪の夜半。……いかさまこれは名句でござる」「句のよし[#「よし」に傍点]悪《あし》はともかくも、産みの苦しみは遁がれましたよ。ああいい気持ちだ。セイセイした」「私《わし》は駄目だ!」と平八は、憂鬱にその声を曇らせたが、「見当もつかぬ。見当もつかぬ。しかしきっと眼付《めつ》けて見せる。耳についている鼓の音! これを手頼《たより》に眼付けて見せる」
 季節はずれの大雪は、藪も畑もまっ白にして、今なおさんさんと降っていた。





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