国枝史郎「名人地獄」(079) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(79)

    気味の悪い不思議な武士

 品川を出た帆船で、銚子港へ行こうとするには、ざっと次のような順序を経て、航海しなければならなかった。
 千葉、木更津《きさらづ》[#ルビの「きさらづ」は底本では「きさらず」]、富津《ふっつ》、上総《かずさ》。安房《あわ》へはいった保田《ほた》、那古《なご》、洲崎《すさき》。野島ヶ岬をグルリと廻り、最初に着くは江見《えみ》の港。それから前原港を経、上総へはいって勝浦、御宿《おんじゅく》。その御宿からは世に名高い、九十九里の荒海で、かこ[#「かこ」に傍点]泣かせの難場であった。首尾よく越せば犬吠崎。それからようやく銚子となり、みちのりにして百五十里、風のない時には港へ寄って、風待ちをしなければならなかった。
 で、玻璃窓の平八の乗った、淀屋の持ち船八幡丸も、この航路から行くことにした。海上風波の難もなく、那古の港まで来た時であったが、一人の武士が乗船した。
 本来八幡丸は貨物船で、客を乗せる船ではないのであったが、やはり裏には裏があり、特に船頭と親しいような者は、こっそり乗ることを許されていた。
 武士の年齢は四十五、六、総髪の大髻《たぶさ》、見上げるばかりの長身であったが、肉付きはむしろ貧しい方で、そのかわりピンと引き締まっていた。着ている衣裳は黒羽二重。しかし大分年代もので、紋の白味が黄ばんでいた。横たえている大小も、紺の柄絲《つかいと》は膏《あぶら》じみ、鞘の蝋色は剥落《はくらく》し、中身の良否はともかくも、うち見たところ立派ではない。それにもかかわらずその人品が、高朗としてうち上がり、人をして狎《な》れしめない威厳のあるのは、学か剣か宗教か、一流に秀でた人物らしい。
 船尾《とも》の積み荷の蔭に坐り、ぼんやりあたりを見廻していた、郡上平八の傍《そば》まで来ると、ふとその武士は足を止めた。
「職人職人よい天気だな」声をかけたものである。
「へい、よい天気でございます」平八はちょっと驚きながらも、こう慇懃《いんぎん》に挨拶をした。
「どこへ行くな? え、職人?」ひどくきさくな調子であった。
「へい、銚子まで参ります」
「うん、そうか、銚子までな」こういうと武士は坐り込んだが、それからじっと平八を眺め、「なんに行くな、え、銚子へ?」
「へい、いえちょっと、仕事の方で。……それはそうとお武家様も、やはり銚子でございますかな?」
「いやおれはすこし違う」武士は変に笑ったが、「ところでお前は何商売だな?」
「へい、船大工でございます」こうはいったが平八は、気味が悪くてならなかった。
「なに船大工? 嘘をいえ」武士はいよいよ変に笑い、「これ、大工というものはな、物を見るのに上から見る。ところがお前は下から見上げる。アッハハハ、これだけでも異《ちが》う。どうだ、これでも大工というか?」
 これを聞くと平八は「あっ、しまった」と胸の中でいった。武士の言葉に嘘はない。すべて大工というものは、棟《むね》の出来栄《できばえ》へまず眼をつけ、それからずっと柱づたいに、土台の仕組みまで見下ろすものであり、それが万事に習慣づけられ、人を見る時には頭から眺め、足に及ぼすものなのであった。これに反して与力、同心、岡っ引きなどというようなものは、何より先に足もとを見、その運びに狂いがないかを、吟味するのに慣らされていた。しかるに平八は思うところあって棟梁《とうりょう》風にやつしてはいたが、ついうっかりとその点へまで、心を配ることをうち忘れ、武士を見る時にも与力風に、まず足から見たものであった。
「それにしてもこの侍、いったいどういう人物であろう?」改めて平八はつくづくと、武士を見守ったものである。
 その混乱した平八の様子が、武士にはひどく面白いと見え、奥歯をかむようにして笑ったが、
「どうだ、これでも船大工かな」
「へい、大工でございますとも、だってそうじゃございませんか、旦那に嘘を申し上げたところで、百も儲かりゃあしませんからね」いわゆるヤケクソというやつで、こう平八はつっぱねた。






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