国枝史郎「名人地獄」(081) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(81)

    ご禁制の二千石船

 不意に驚いた平八が、引っ込めようとするその手先を、武士は内側へグイと捻った。逆手というのではなかったので、苦痛も痛みも感じなかったが、なんともいえない神妙の呼吸は、平八をして抗《あらが》わせなかった。
「さて、掌《てのひら》だ、ここを見ろ!」いうと一緒に侍は、小指の付け根へ指をやったが、「よいか、ここは坤《こん》という。中指の付け根ここは離《り》だ。ええと、それから人差し指の付け根、ここを称して巽《そん》という。ところで大工の鉋《かんな》ダコだが、必ずこの辺へ出来なければならない。しかるにお前の掌を見るに、そんなものの気振りもない。これ疑いの第一だ。それに反して母指《おやゆび》の内側、人差し指の内側へかけて、一面にタコが出来ている。これ竹刀《しない》を永く使い、剣の道にいそしんだ証拠だ。……が、まずそれはよいとして、ここに不思議なタコがある。と、いうのは三筋の脉《みゃく》、天地人の三脉に添って、巽《そん》の位置から乾《けん》の位置まで斜めにタコが出来ている。さあ、このタコはどうして出来た?」武士はニヤリと一笑したが、「お前、捕り縄を習ったな! アッハハハ、驚くな驚くな、すこし注意をしさえしたら、こんなことぐらい誰にでも解る。……さて次にお前の足だが、心持ち内側へ曲がっている。そうしてふくらはぎに馬擦れがある。これ馬術に堪能の証拠だ。ところで、捕り縄の心得があり、しかも馬術に堪能とあっては、自ら職分が知れるではないか。これ、お前は与力だろうがな! いや、しかし年からいうと、今は役目を退いている筈だ。……与力あがりの楽隠居。これだこれだこれに相違ない! どうだ大将、一言もあるまいがな」
 武士は哄然と笑ったものである。
「おい」と武士はまたいった。「変装をしてどこへ行くな? しかも大工のみなりをして。いやそれとてこのおれには、おおかた見当がついている。そこでお前へ訊くことがある、いま見せてやった図面の船、何石ぐらいかあたりがつくかな?」
「へえ」といったが平八には、その見当がつかなかった。それに度胆を抜かれていた。で、眼ばかりパチクリさせた。
「解らないかな」と冷やかに笑い、フイと武士は立ち上がったが、「お前の目的とおれの目的と、どうやら同じように思われる。……それはとにかくこの船はな、二千石船だよ! ご禁制の船だ!」いいすてると武士は大跨に歩き、胴の間の方へ下りていった。
 後を見送った平八が、心の中で、「あっ」と叫んだのは、まさに当然というべきであろう。彼はウーンと唸り出してしまった。「武術が出来て手相が出来、そうしてご禁制の大船の図面を、二葉までも持っている。……みなりは随分粗末ながら、高朗としたその風采、一体全体何者だろう?」
 しかし間もなく武士の素性は、意外な出来事から露見された。
 それは上総の御宿の沖まで、船が進んで来た時であったが、忽ち海賊におそわれた。その時はもう夕ぐれで、浪も高く風も強く、そうしてあたりは薄暗かったが、忽然一せきの帆船が行く手の海上へあらわれた。べつに変ったところもない、普通の親船にすぎなかったが、しずかにしずかに八幡丸を、あっぱくするように近寄ってきた。ちょうどこの時平八は、船のへさきに胡坐《あぐら》をかき、海の景色をながめていたが、その鋭い探偵眼で、賊船であることを見てとった。
「ははあ、いよいよおいでなすったな」
 ニヤリとほくそ笑んだものである。
 正直のところ平八は、海賊を待っていたのであった。そうして彼は十中八九、現われてくるものと察していた。というのは八幡丸は、船脚が遅くかこ[#「かこ」に傍点]が少なく、しかも船としては老齢なのに、某《なにがし》大名から領地へ送る、莫大《ばくだい》もない黄金を、無造作《むぞうさ》に積みこんでいるからで、こういう船を襲わなかったら、それこそ海賊としては新米であった。






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