国枝史郎「名人地獄」(082) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(82)

    武士の剣技精妙を極む

 八幡丸のかこ[#「かこ」に傍点]どもが、海賊来襲に気がついたのは、それから間もなくのことであったが、しかしその時は遅かった。賊船から下ろされた軽舟が、すでに周囲《まわり》をとりまいていた。と、投げかけた縄梯子をよじ、海賊の群がなだれこんで来た。
 怒号、喚声、呻吟、悲鳴、おだやかであった船中が、みるまに修羅場と一ぺんしたのは悲惨というも愚かであった。賊は大勢のそのうえに手に手に刀を抜き持っていた。勝敗の数は自《おのずか》ら知れた。最初はけなげに抵抗もしたが、あるいは傷つけられまたは縛られ、悉くかこ[#「かこ」に傍点]たちは平げられてしまった。
 船腹へ飛び込んだ海賊どもが、黄金の箱をかつぎだしたり、積み荷の行李を持ちだしたりする、不気味といえば不気味でもあり、壮快といえば壮快ともいえる、掠奪の光景が演じられたのも、それから間もなくのことであった。
 海上を見ればすぐ手近に、その櫓《やぐら》を黒く塗った、海賊船の親船が、しずまりかえって横たわり、こっちの様子をうかがっていた。あたりを通る船もなく、煙波は茫々と見渡すかぎり、夕暮れの微光に煙っていた。
 では不幸な八幡丸は、そのまま海賊の掠奪にあい、全部積み荷を奪われたのであろうか? いやいやそうではなかったのであった。胴の間に眠っていた例の武士が、その眠りから覚めた時、形勢は逆転したのであった。
 まず胴の間から叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]する、武士の声が響いて来た。と、つづいてウワーッという、海賊どもの喚き声が聞こえ、忽ち田面《たのも》の蝗《いなご》のように、胴の間口から七、八人の、海賊どもが飛び出して来た。と、その後ろから現われたのが、怒気を含んだ例の武士で、両手に握った太い丸太を、ピューッピューッと振り廻した。が、振り方にも呼吸があり、決してむやみに振り廻すのではない。急所急所で横に縦に、あるいは斜めに振り下ろすのであった。
 しかし一方賊どもも、命知らずの荒男《あらおとこ》どもで、危険には不断に慣れていた。ことには甲板には二十人あまりの、味方の勢がいたことではあり、一団となって三十人、だんびら[#「だんびら」に傍点]をかざし槍をしごき、ある者は威嚇用の大まさかりを、真《ま》っ向《こう》上段に振りかぶり、さらにある者は破壊用の、巨大な槌を斜めに構え、「たかが三ピンただ一人、こいつさえ退治たらこっちのもの、ヤレヤレヤレ! ワッワッワッ」と、四方八方から襲いかかった。
 が、武士の精妙の剣技たるや、ほとんど類を絶したもので、人間業とは見えなかった。まず帆柱を背に取ったのは、後ろを襲われない用心であった。握った丸太はいつも上段で、じっと敵を睥睨《へいげい》した。静かなること水の如く、動かざること山の如しといおうか、漣《さざなみ》ほどの微動もない。と、ゆっくり幾呼吸、ジリジリ逼る賊の群を一間あまり引きつけて置いて、「カッ」と一声《せい》喉的破裂《こうてきはれつ》、もうその時には彼の体は敵勢の中へ飛び込んでいた。ピューッという風鳴りの音! 丸太が斜めに振られたのであった。生死は知らずバタバタと、三人あまり倒れたらしい。「エイ」という引き気合い! まことに軟らかに掛けられた時には、彼のからだは以前の場所に、以前と同じに立っていた。と、ワッと閧《とき》を上げ、バラバラと逃げる賊の後を、ただ冷然と見るばかり、無謀に追っかけて行こうとはしない。帆柱を背に不動の姿勢、そうして獲物は頭上高く、やや斜めにかざされていた。と、また懲りずにムラムラと、海賊どもが集まって来た。それを充分引きつけておいて、ふたたび喉的破裂の音、「カッ」とばかりに浴びせかけた時には、どこをどのようにいつ飛んだものか、長身痩躯《そうく》の彼の体は、賊勢の只中に飛び込んでいた。またもやピューッという風を切る音、同時にバタバタと倒れる音、「エイ」と軟らかい引き呼吸、もうその時には彼の体は、帆柱の下に佇んでいた。それからゆるやかな幾呼吸、微塵労疲《つか》れた気勢《けはい》もない。で、また賊はムラムラと散ったが、それでも逃げようとしないのは、不思議なほどの度胸であった。彼らは口々に警《いまし》め合った。
「手強《てごわ》いぞよ手強いぞよ!」「用心をしろよ用心をしろよ!」






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