国枝史郎「名人地獄」(083) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(83)

    秋山要介と森田屋清蔵

 そこで遠巻きにジリジリと、またも賊どもは取り詰めて来た。しかし武士は動かない。ただ凝然《じっ》と見詰めていた。口もとの辺にはいつの間にか、憐れみの微笑さえ浮かんでいた。
 と、また同じことが繰り返された。賊どもがまたも押し寄せて来た。忽ち掛けられた喉的破音《こうてきはおん》。同時に武士の長身は、敵の中へ飛び込んでいた。ピューッという風鳴りの音、続いて賊どもの倒れる音、そうして軟らかい気合いと共に、武士の姿は帆柱のもとに、端然冷然と立っていた。
 判で押したように規則正しい、その凄烈の斬り込みは、なんと形容をしていいか、言葉に尽くせないものがあった。
 帆綱の蔭に身をひそめこの有様を眺めていた、玻璃窓の郡上[#「郡上」は底本では「那上」]平八が、感嘆の溜息を洩らしたのは、まさに当然なことであろう。
「人間ではない天魔の業だ。それにしてもいったいこの人は、どういう身分のものだろう? 無双の剣客には違いないが、はて、それにしても誰だろう? 当時江戸の剣豪といえば、千葉周作に斎藤弥九郎、桃井春蔵に伊庭親子、老人ながら戸ヶ崎熊太郎、それから島田虎之助、お手直し役の浅利又七郎、だがこれらの人々は、みんな顔を知っている。武州練馬の樋口十郎左衛門、同じく小川の逸見《へんみ》多四郎、それから、それからもう一人! うん、そうだ、あの人だ!」
 その時、ボ――ッという竹法螺《たけぼら》の音が、賊の親船から鳴り渡った。それが何かの合図と見え、武士を取り巻いていた海賊は、一度に颯《さっ》と引き退いたが、ピタピタと甲板へ腹這いになった。びっくりしたのは平八で、「はてな、おかしいぞ、どうしたのだろう?」グルリと海の方を振り返って見た。と、賊の親船が、数間の手前まで近寄っていた。そうして船の船首《へさき》にあたり、一個の人物が突っ立っていた。どうやら海賊の首領らしく、手に一丁の種子ヶ島を捧げ、じっとこっちを狙っていた。武士を狙っているのであった。
「あっ、飛び道具だ! こいつはいけない!」平八は思わず絶叫した。「種子ヶ島だア! 飛び道具だア! お武家あぶねえ! あぶねえあぶねえ!」そうして両手を握り締めた。武士はと見れば、冷然と、帆柱の下に立っていた。ただ上段に構えていたのを、中段に取り直したばかりであった。
 風もやみ、浪も静まり、海賊どもは腹這いを続け、四辺寂《せき》として声もなく、ただ平八の声ばかりが、こだまも起こさぬ大洋の上を、どこまでもどこまでも響いて行った。と、薄闇を貫いて、パッと火縄の火花が散り、ドンと一発鳴り渡ろうとした時、武士が大音《だいおん》に呼ばわった。
「おお貴様は、森田屋じゃねえか!」
「えっ」といったらしい驚きの様子が、鉄砲の持ち主から見て取られたが、「やあそうおっしゃるあなた様は、秋山先生じゃございませんか!」
「いかにも俺は秋山要介、貴様を尋ねてやって来たのだ!」
「あっいけねえ、そいつあ大変だ! わっちも先生のおいでくださるのを、一日千秋で待っていやした。いやどうもとんだ間違いだ! 取り舵イイ」とばかり声を絞った。ギ――と軋《きし》る艫櫂《ろかい》の音、見る見る賊船は位置を変え、八幡丸の船腹へ、ピッタリ船腹を食っつけてしまった。
 この二人の問答を聞き、はっと思ったのは平八で、剣技神妙の侍が、秋山要介であろうとは、たった今し方感づいたところで、これには別に驚かなかったが、海賊船の頭領が、森田屋清蔵であろうとは、夢にも思わなかったところであった。
 天保六花撰のその中でも、森田屋清蔵は宗俊に次いで、いい方の位置を占めていた。しかも人物からいう時は、どうしてどうして宗俊など、足もとへも寄りつけないえらもの[#「えらもの」に傍点]なのであった。気宇《きう》の広濶希望の雄大、任侠的の精神など、日本海賊史のその中でも、三役格といわなければならない。産まれは駿州江尻在、相当立派な網持ちの伜で、その地方での若旦那であり、それが海賊になったのには、いうにいわれぬ事情があったらしい。






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