国枝史郎「名人地獄」(006) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(06)

    無任所与力と音響学

 季節はずれの大雪で、桜の咲くのはおくれたが、いよいよその花の咲いたときには、例年よりは見事であった。「小うるさい花が咲くとて寝釈迦かな」こういう人間は別として、「今の世や猫も杓子も花見笠」で、江戸の人達はきょうもきのうも、花見花見で日を暮らした。
 一閑斎の小梅の寮へも、毎日来客が絶えなかった。以前《むかし》の彼の身分といえば、微禄のご家人に過ぎなかったが、商才のある質《たち》だったので、ご家人の株を他人に譲り、その金を持って長崎へ行き、蘭人相手の商法をしたのが、素晴らしい幸運の開く基で、二十年後に帰って来た時には、二十万両という大金を、その懐中《ふところ》に持っていた。利巧な彼は江戸へ帰ってからも、危険な仕事へは手を出さず、地所を買ったり家作を設けたり、堅実一方に世を渡ったが、それも今から数年前までで、総領の吾市に世を譲ってからは、小梅の里へ寮住居、歌俳諧や茶の湯してと、端唄の文句をそのままののんきなくらしにはいってしまった。そこは器用な彼のことで、碁を習えば碁に達し俳句を学べば俳句に達し、相当のところまで行くことが出来、時間を潰すには苦労しなかった。もっともそういう人間に限って、蘊奥《うんのう》を極めるというようなことは、ほとんど出来難いものであるが、そういう事を苦にするような、芸術的人間でもなかったので、結句その方が勝手であり、まずい皮肉をいう以外には、社交上これという欠点もなく、座談はじょうず金はあり、案外親切でもあったので、武士時代の同僚はじめ、風雅の友から書画骨董商等、根気よく彼のもとへ出入りした。
 しかるにこれも常連の、郡上平八だけはあの夜以来、ピッタリ姿を見せなくなった。それを不思議がって人がきくと、一閑斎は下手な皮肉で、こんな塩梅《あんばい》に答えるのであった。「なにさ、あの仁は無任所与力でな、隠居はしてもお忙しい。それに目下は音響学で、どうやら一苦労なすっているらしい。油を売りになど見えられるものか」「何んでござるな、音響学とは?」相手がもしもこうきこうものなら、一閑斎は大得意で、さらに皮肉を飛ばせるのであった。「音響学でござるかな、音響学とは読んで字の如し。もっともあのじん[#「じん」に傍点]の音響学は、ちと変態でござってな、ポンポンと鳴る小鼓の音から、鼠小僧を現じ出そうという、きわめて珍しいものでござるよ」
 これではどうにも聞く人にとっては、なんのことだかわからない。しかし実際郡上平八は、あの晩以来思うところあって、あの時耳にした鼓の音を、是非もう一度聞きたいものと、全身の神経を緊張《ひきし》めて、江戸市中を万遍《まんべん》なく、歩き廻っているのであった。人間の心理や世間の悪事を、玻璃窓を透して見るように、正しく明らかに見るというところから、あざ名を「玻璃窓」とつけられた彼は、老いても体力衰えず、職は引退《のい》ても頭脳は鋭く、その頭脳の働き方が、近代の言葉で説明すると、いわゆる合理的であり科学的であって、在来《ざいらい》の唯一の探偵法たる「見込み手段」を排斥し、動かぬ証拠を蒐集して、もって犯人をとらえようという「証拠手段」をとるのが好きで、若いかいなで[#「かいなで」に傍点]の与力や同心経験一点張りの岡《おか》っ引《ぴき》など、実にこの点に至っては、その足もとへも寄りつけなかった。その彼が何か思うところあって、鼓の音を追うというからには、その鼓の音なるものが、いかに大切なものなるかが、想像されるではあるまいか。
 江戸を飾っていた桜の花が「ひとよさに桜はささらほさらかな」と、奇矯な俳人が咏んだように、一夜の嵐に散ってからは、世は次第に夏に入った。苗売り、金魚売り、虫売りの声々、カタンカタンという定斎屋《じょうさいや》の音、腹を見せて飛ぶ若い燕の、健康そうな啼き声などにも、万物生々たるこの季節の、清々《すがすが》しい呼吸が感ぜられた。春にだらけた人々の心も、一時ピンとひきしまり、溌溂たる[#「溌溂たる」は底本では「溌※[#「さんずい+刺」]たる」]元気をとりかえしたが一人寂しいのは平八老人で、この時までも鼓の音を、耳にすることが出来なかった。そもそも鼓はどこにあるのであろう? 二度と再びあの鼓は、美妙な音色を立てないのであろうか?
 いやいや決してそうではない。鼓はこの時も鳴っていたのであった。思いも及ばない辺鄙《へんぴ》の土地、四時煙りを噴くという、浅間の山の麓《ふもと》の里、追分節の発生地、追分駅路のある旅籠屋で、ポンポン、ポンポンと美しく、同じ音色に鳴っていたのであった。





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