国枝史郎「名人地獄」(087) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(87)

    鼓賊旅へ出立する

 船は白波を高く上げ、九十九里ヶ浜の沖中を、北へ北へと走っていた。
 いま酒宴は真っ盛りであった。
 秋山要介の左側には、金子市之丞が坐っていた。総髪の大髻《おおたぶさ》、紋付きの衣裳に白袴、色白の好男子であった。その二人を取り巻いて、ガヤガヤワイワイ騒いでいるのは、さっきまで、要介を向こうへ廻し、切り合っていた海賊どもで、白布で手足を巻いているのは、いずれも要介に船板子で、打ち倒された者どもであった。いわゆる山海の珍味なるものが、あたりいっぱいに並んでいた。眼まぐるしく飛ぶは盃《さかずき》で、無茶苦茶に動くのは箸であった。牛飲馬食という言葉は、彼らのために出来ているようだ。
「どうやら最近赤格子めは、散在していた手下どもを、大分集めたということだが、ちと手強《てごわ》いかもしれないぞ。だが俺がいるからには、五十人までは引き受ける。後はお前達で片づけるがいい。年頃指南した小太刀の妙法、市之丞うんと揮うがいいぞ」こう要介は豪快にいった。
「先生さえいれば千人力、いかに赤格子が豪傑でも、討ち取るに訳はございません」市之丞は笑《え》ましげに、「それはそうと先生には、どうしてそのような船図面を、お手に入れたのでございますな?」「これか」というと要介は、膝の上へひろげていた例の図面へ、きっと酔眼を落としたが「いやこれは偶然からだ。……実は便船を待ちながら、木更津の海辺をさまよっていると、細身蝋塗りの刀の鞘が、波にゆられて流れ寄ったものだ。何気なく拾い上げて調べてみると、口もとに粘土が詰めてある。ハテナと思って掘り出して見ると、中からこれが出て来たのさ」「それは不思議でございますな」「不思議だといえば全く不思議だ」「では赤格子めが造っているという、素晴らしく大きなご禁制船のたしかな図面ともいえませんな?」「うん、たしかとはいえないな」「しかしそれにしてもそんな図面を、なんで刀の鞘などへ入れ、海へ流したのでございましょう?」「わからないな、トンとわからぬ。しかし、赤格子めを退治てみたら、案外真相がわかるかもしれない。……さあ貴様達酒ばかり飲まずと、景気よく唄でもうたうがいい!」「へえ、よろしゅうございます」海賊どもは手拍子をとり、声を揃えてうたい出した。月が船縁《ふなべり》を照らしていた。海は真珠色に煙っていた。その海上を唄の声が、どこまでもどこまでも響いて行った。

 ある時は千三屋、またある時は鼠小僧、そうして今は鼓賊たるところの、和泉屋次郎吉はこの日頃、ひどく退屈でならなかった。「チビチビ江戸の金を盗んだところで、それがどうなるものでもない。どうかしてドカ儲けをしたいものだ」こんなことを思うようになった。
「気が変っていいかもしれない、ひとつ旅へでも出てみよう」……で鼓を風呂敷へ包み、そいつをヒョイと首っ玉へ結び、紺の腹掛けに紺の股引き、その上へ唐棧の布子を着、茅場町の自宅をフラリと出た。「東海道は歩きあきた、日光街道と洒落のめすか。いや、それより千葉へ行こう。うん、そうだ、千葉がいい。酒屋醤油屋の大家ばかりが、ふんだんに並んでいるあの町は、金持ちで鼻を突きそうだ。千葉へ行ってあばれ廻ってやろう。しかし海路は平凡だ。陸地《くがじ》を辿って行くことにしよう」






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