国枝史郎「名人地獄」(089) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(89)

    地下二十尺救助を乞う

「おおやっぱり千三屋か。妙なところで逢ったなあ。これは奇遇だ、いや奇遇だ」こういいながら近寄って来たのは、他ならぬ平手造酒であった。今年の真夏追分宿で、仲よく(?)つきあった頃から見ると、多少やつれてはいたけれど、尚精悍の風貌は、眉宇《びう》のあいだに現われていた。「オイ千三屋」と叱るように、「実に貴様は悪い奴だな。観世の小鼓をなぜ盗んだ」「ああこいつでございますか」次郎吉はテレたように笑ったが、「へい、いかにも追分では、無断拝借をいたしやした。だがその後観世様へ、一旦ご返却いたしましたので」「嘘をいえ、悪い奴だ」造酒は一足詰めよせたが「一旦返した観世の小鼓を、どうしてお前は持っている?」「それには訳がございます」気味が悪いというように、小刻みに後へ退りながら、「実はこうなのでございますよ。一旦お返ししたあとで、是非に頂戴いたしたいと、お願いしたのでございますな。すると観世様はこうおっしゃいました。盗まれてみれば不浄の品、もう家宝にすることはできぬ。往来へ捨てるから拾うがよいと。……で往来へお捨てなされたのを、わっちが急いで拾ったので。嘘も偽《いつわ》りもございません。ほんとうのことでございますよ」次郎吉は額の汗を拭いた。
 造酒は迂散《うさん》だというように、黙って話を聞いていたが、不承不承に頷いた。
「貴様も相当の悪党らしい。問い詰められた苦しまぎれに、ちょっと遁《の》がれをいうような、そんなコソコソでもなさそうだ。それに観世の精神なら、そんな態度にも出るかもしれない。お前のいいぶんを信じることにしよう」「へえ、ありがとう存じます。ヤレヤレこれで寿命が延びた、抜き打ちのただ一刀、いまにバッサリやられるかと、どんなにハラハラしたことか。……それはそうと平手様、どうしてこんな辺鄙《へんぴ》な土地に、おいでなさるのでございますな?」……聞かれて造酒は気まずそうに、寂しい笑いをうかべたが、「銚子港ならまだ結構だ。もっと辺鄙な笹川にいるのだ」「おやおやさようでございますか」「おれも江戸をしくじってな。道場の方も破門され、やむを得ずわずかの縁故を手頼《たよ》り、笹川の侠客繁蔵方に、態のいい居候《いそうろう》、子分どもに剣術を教え、その日をくらしているやつさ」「そいつはどうもお気の毒ですなあ。……それで今日はこの銚子に、何かご用でもございまして?」「うん」といったが声を落とし、「実は騒動が起こりそうなのだ」「へえ、なんでございますな?」「飯岡の侠客助五郎が、笹川繁蔵を眼の敵《かたき》にして、だんだんこれまでセリ合って来たが、いよいよ爆発しそうなのさ。そこでおれは今朝早く、笹川を立って飯岡へ行き、それとなく様子を探って見たが、残念ながら喧嘩となれば、笹川方は七分の負けだ。なんといっても助五郎は、老巧の上に子分も多く、それにご用を聞いている。こいつは二足の草鞋といって、博徒仲間では軽蔑するが、いざといえば役に立つからな。……喧嘩は負けだと知ってみれば、気がむすぼれて面白くない。そこで大海の波でも見ようと、この銚子へやって来たのさ。それに銚子ははじめてだからな。……おや、あれはなんだろう? おかしなものが流れ寄ったぞ」
 つと渚《なぎさ》へ下りて行き、泡立つ潮へ手を入れると、グイと何かひき出した。それは細身の脇差しの鞘で、渋い蝋色に塗られていた。
「はてな?」と造酒は首をかしげたが、
「この鞘には見覚えがある」……で、鞘口へ眼をやった。と粘土が詰められてあった。粘土を取って逆に握り、ヒューッとひとつ振ってみた。すると、中から落ちて来たのは、小さく畳んだ紙であった。「これは不思議」と呟きながら、紙をひらくと血で書いたらしい、一行の文字が現われた。読み下した造酒の顔色が、サッと変ったのはどうしたのであろう? これは驚くのが当然であった。紙には次のように書かれてあった。
「主知らずの別荘。地下二十尺。救助を乞う。観世銀之丞」
 差し覗いていた次郎吉も、これを見ると眼をひそめた。
「こいつあ平手さん大変だ。文があんまり短くて、はっきりしたことは解らねえが、なんでも観世銀之丞さんは、悪い奴らにとっ掴まり、主知らずとかいう別荘へ、押し込められているのです。地下二十尺というからには、恐ろしい地下室に違えねえ。救助を乞うと血で書いてあらあ。まごまごしちゃいられねえ」「だが、どうして助け出す?」造酒は呻くように訊きかえした。「主知らずの別荘だって、どこにあるのかわからないではないか」「ナーニ、そんなことは訳はねえ。刀の鞘の鞘口へ、粘土が詰められてありましたね。そいつが崩れていなかったのは、永く海にいなかった証拠だ。いずれ手近のこの辺に、別荘はあるに違えねえ。銚子からはじめて付近の港を、これからズッと一巡し、人に訊いたら解りましょうよ」「いかさまこれはもっともだ。では一緒に尋ねようか」「いうにゃ及ぶだ。参りましょう!」そこで二人は手をたずさえ、町の方へ走って行った。






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