国枝史郎「名人地獄」(092) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(092)

    追いつ追われつ鼓賊と玻璃窓

「九郎右衛門には逢わなければならない。その他の者には逢いたくない。深夜に他家へ忍び込み、ウソウソ歩いているところを、とっ捉まえられたらそれっきりだ。泥棒といわれても仕方がない。しかし誰かに聞かないことには、九郎右衛門のありかは解らない。歩いているのは誰だろう? 九郎右衛門なら有難いが? いやいや恐らく召使いだろう。とまれ様子をうかがってみよう」そこで彼は歩いて行った。行く手に一つの部屋があった。九郎右衛門の病身の妻、お妙の住んでいた部屋なのであるが、今は誰もいなかった。で、平八はその部屋へ素早くからだを辷《すべ》り込ませ、扉《と》の隙間から廊下の方を息を凝らしてうかがった。こなた鼓賊の次郎吉は、西へ西へと歩を運んだが、かつて丑松の住んでいた、そうして今はガラ空きの、一つの部屋の前まで来た時反対側を歩いていた、忍ぶがような足音が、にわかにピッタリ止まったので、これもピッタリ足を止めた。そうして彼は考えた。
「銀之丞様も銀之丞様だが、俺の真の目的は、この家の巨財を奪うことだ。鼓に答えた億万の巨財! いったいどこにあるのだろう? ポンポンと鼓を調べさえしたら、音色を通して、感じられるのだが、まさかここでは打たれない。眼を覚まさせるようなものだからな。……おや足音が止《や》んでしまったぞ。いずれはこの家の召使いだろうが、ちょっと様子を見たいものだ。……待ったり待ったりあぶねえあぶねえ、泥棒とでも呼ばれたものなら、百日の説法何とやらだ。……おおここに部屋がある。ここに少し忍んでいてやろう」
 丑松の部屋へはいり込み、廊下の様子をうかがった。しんしんと四辺《あたり》は静かであった。物寂しく人気がない。
 お妙の部屋へ忍び込み、様子をうかがっていた平八は、向こう側の足音が絶えたので、小首を傾けざるを得なかった。
「さてはこっちの木精《こだま》かな? 奇妙きわまる館の造り、俺の歩く足音が、向こうの壁へ響くのかもしれない。名代の赤格子九郎右衛門だ、建築学でも大家だそうな。これは木精《こだま》に相違ない。どれソロソロ歩いてみようか」
 首につるした密書箱を、懐中《ふところ》の中でしっかりと握り、平八は部屋から廊下へ出た。そうしていっそう足音を忍ばせ、東側の長廊下を北へ辿った。
 和泉屋次郎吉は名誉の盗賊、相手がいかに足音を忍ばせ、空を踏むように歩いたところで、聞きのがすようなことはない。
「ははあ、そろそろ歩き出したな。待てよ、こいつは家人ではないぞ。召使いでもなさそうだ。この歩き方は忍術《しのび》の骨法だ。……これはおかしい。不思議だな。まさか俺《おい》らと同じように、金を目掛けて忍び込んだ、白浪《しらなみ》の仲間でもあるまいが。……いや全くこれは不思議だ。浮かぶような足取りで歩いている。よし、一つ驚かせてやろう。……エヘン!」と一つ咳をした。それから部屋から廊下へ出、西側の廊下を南の方へ、お艶の部屋までツツ――と走った。これも忍術《しのび》の一秘法、電光のような横歩きであった。
 胆を潰したのは平八であった。これも空っぽの六蔵の部屋の、まず正面でピタリと止まり、思わず「ムー」と呻き声を上げた。
「木精《こだま》ではない、木精ではない! やはり人間が歩いているのだ。ううむ、咳までしたんだからな。ではやっぱり召使いかな? いや待てよ、あの歩き方は?」彼はそこで考え込んだ。「これは普通の歩き方ではない。エヘンと咳をしておいて、ツツ――と辷って行ったあの呼吸。何んともいえない身の軽さ。……だがしかし俺はこんなところで、まごまごしてはいられない。至急赤格子に逢わなければならない。グズグズしていると秋山が、兵を率いて攻めて来る。もし赤格子が殺されたら、俺の使命は無駄になる。碩翁様《せきおうさま》にも合わす顔がない。……さんざ鼓賊に翻弄《ほんろう》され、尚その上に今度の使命まで、無駄にされては活きてはいられぬ。……だが、どうも気になるなあ誰がいったい歩いているのだろう? 俺が歩けば向こうも歩き、俺が止まれば向こうも止まる。俺をからかってでもいるようだ。館の造りもまことに変だ。真ん中に四角な石壁があって、その周囲に廊下があり、廊下の隅々に部屋がある。だが、どれも空っぽだ。いったい四角な石壁は、なんの必要があって出来ているのだろう? 部屋にしては戸口がない。打《ぶ》っても叩いてもビクともしない。……おや、畜生歩き出したかな?」平八はじっと耳を澄まし、向こう側の様子を聞き澄ました。






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