国枝史郎「名人地獄」(094) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(094)

    美しいかな人情の発露

 しかしにわかに静かになったのが、彼には怪訝《けげん》に思われた。「疲労《つか》れたかな、可愛そうに」で彼は耳を澄ました。次第に好奇心に駆られて来た。行って見たくてならなかった。そこで彼はソロソロと、南側の廊下を西にとり、お艶の部屋まで行って見た。そうしてそこから見渡される、西側の廊下を隙《す》かして見た。しかし誰もいなかった。で、今度は西側の廊下を、北の方へ歩いて行った。そうして丑松の部屋まで行った。そうしてそこから見渡される、北側の廊下を隙かして見た。と、驚くべき光景が、彼の眼前に展開されていた。一人の老人がうずくまっていた。一人の小男が種子ヶ島で、その老人を狙っていた。石壁から火光《ひかり》が射していた。……その老人が思いもよらず、玻璃窓の平八だと見て取った時、彼はドキリと胸を打った。そうして彼はクラクラとした。「それじゃ今まで玻璃窓めと、追いつ追われつしていたのか!」彼はブルッと身顫いした。
「江戸から追っかけて来たんだな! 恐ろしい奴だ。素早い奴だ!」彼は身の縮む思いがした。
「だが小男は何者だろう! そうして何のために種子ヶ島で玻璃窓を狙っているのだろう? 玻璃窓はなんにも知らないらしい。顔を抑えてうずくまっている。泣いてるのじゃあるまいかな? なんでもいい、いい気味だ! 殺されてしまえ! 消えてなくなれ!」
 彼は嬉しさにニタニタ笑った。と、そのとたんに彼の心へ、別の感情が湧き出した。「ああ、だがしかし玻璃窓めは、俺にとっちゃ好敵手だった。あいつの他にこの俺を、鼓賊だと睨んだものはねえ。あの玻璃窓に縛られるなら、俺も往生して眼をつぶる。その玻璃窓めが殺されようとしている。……うん、こいつあうっちゃっちゃ置けねえ! こいつあどうしても助けなけりゃあならねえ。あっ、引き金を締めやがった! いけねえいけねえ間に合わねえ! 畜生!」
 と怒鳴ると持っていた鼓を、種子ヶ島目掛けて投げ付けた。瞬間にド――ンと発砲された。
 それから起こった格闘は、真に劇的のものであった。
 少納言の鼓は種子ヶ島にあたり、鼓と種子ヶ島とは宙に飛んだ。で、鉄砲の狙いは外れた。玻璃窓の平八は飛び上がった。そうして丑松へ組み付いた。それを外した丑松は、逃げ場を失って北側の廊下を、西の方へ走って行った。そこへ飛び出したのが次郎吉であった。撲る、蹴る、掴み合う! やがて一人が「ウ――ン」と呻き、バッタリ仆れる音がした。二人の人間は立ち上がり、はじめて顔を見合わせた。
「玻璃窓の旦那、お久しぶりで」
「おっ、貴様は和泉屋次郎吉!」
「あぶないところでございましたなあ」
「それじゃ貴様が何かを投げて……」
「走って行っちゃ間に合わねえ。そこで鼓を投げやした」「ううん、そうして俺を助けた!」「へん、敵を愛せよだ!」「眼力たがわず和泉屋次郎吉、わりゃあやっぱり鼓賊だったな!」「だが鼓はこわれっちゃった」「捕《と》った!」というと平八は、次郎吉の手首をひっ掴んだ。
「見事捕る気か! さあ捕れ捕れ! だが命の恩人だぞ!」
「ううん」というと平八は、とらえた次郎吉の手を放した。
 森然《しん》と更けた夜の館、二人は凝然と突っ立っていた。

 一方こなた平手造酒は、次郎吉と別れるとその足で、出邸の一つへ走って行った。出邸には全く人気がなく、矢狭間《やざま》造りの窓から覗くと、内部は整然と片付けられていた。で、内へはいってみた。ここへ七人立てこもったなら、五十人ぐらいは防げようもしれぬと、そう思われるほど厳重をきわめた砦《とりで》のような構造であったが、しかしどこにも隠れ戸もなければ、地下へ通う穴もなかった。で、造酒はそこを出て、次の出邸へ行ってみた。そこも全く同じであった。構造は厳重ではあったけれど、人気というものがさらになかった。






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