国枝史郎「名人地獄」(095) (めいじんじごく)

国枝史郎「名人地獄」(095)

    お艶と造酒一室に会す

 こうして順次四つの出邸を、平手造酒は訪ね廻った。その結果彼の得たところは、疲労とそうして空虚とであった。親友の観世銀之丞については、全く知ることが出来なかった。
「ふうむ、それでは本邸に、観世は隠されているのだな」こう考えると猶予《ゆうよ》ならず、彼は本邸へ走って行った。戸にさわるとすぐに開き、廊下が眼前に展開された。すなわち北側の廊下であった。正面に巨大な石壁があった。それについて西の方へ歩いた。と、廊下がそこで曲がった。西側の廊下が真《ま》っ直《す》ぐに、彼の足もとから延びていた。その廊下の一所に、三人の人影が集まっていた。一人は床の上に仆れているし、二人は向かい合って突っ立っていた。造酒はハッと胸を躍らした。しかしそれよりももう一つのことが、彼の心を引き付けた。それは石壁の一角が、扉のように口をあけ、そこから火光が洩れていることで、どうやら部屋でもあるらしい。
 つと造酒は踏み込んでみた。そこははたして部屋であった。かつていつぞや観世銀之丞が、偶然のことから呼び込まれた、赤格子九郎右衛門の部屋であった。しかしその頃とは異《ちが》っていた。金銀財宝珍器異類、夥《おびただ》しかったそれらのものが、今は一つも見られない。ガランとした灰色のだだっぴろい部屋が、味も素《そ》っ気《け》もなく広がっていた。そうして天井から飾り燈火が、明るい光を投げていた。その光に照されて、一人の女が浮き出ていた。女は床の上に仆れていた。そうして荒縄で縛られていた。口には猿轡《さるぐつわ》が嵌められていた。それは妖艶たる若い女で、他ならぬ九郎右衛門の娘であった。
 造酒は意外に驚きながらも、女の側へ走り寄り、縄を解き猿轡《さるぐつわ》を外した。するとお艶は飛び上がったが、扉の側へ飛んで行き、ガッチリ内側から鍵を掛けた。
「態《ざま》ア見やがれ丑松め!」あたかも凱歌《がいか》でも上げるように、男のような鋭い声で、こう彼女は叫んだが、そこで初めて造酒を眺め、気高い態度で一礼した。
「お娘《むすめ》ご、お怪我はなかったかな?」
 造酒はその美に打たれながら、こういう場合の紋切り型、女の安否を気遣った。
「あぶないところでございました。でも幸い何事も。……あれは丑松と申しまして、父の家来なのでございます。ずっと前から横恋慕をし、今日のような大事の瀬戸際《せとぎわ》に、こんな所へおびき出し、はずかしめようとしたのでございます。……失礼ながらあなた様は?」お艶は気が付いてこう訊いた。造酒はそれには返辞をせず、
「お見受けすればあなたには、どうやらこの家のお身内らしいが、しかとさようでござるかな?」
「ハイ、さようでございます。別荘の主人九郎右衛門の娘、艶と申す者でございます」「有難い!」と叫ぶと平手造酒はツカツカ二、三歩近寄ったが、「しからばお訊きしたい一義がござる。江戸の能役者観世銀之丞、当家に幽囚されおる筈、どこにいるかお明かしください!」勢い込んで詰め寄せた。
 と、お艶の眼の中へ、活々《いきいき》した光が宿ったが、
「仰せ通り銀之丞様は、当家においででございます」「おお、そうなくてはならぬ筈だ。で、今はどこにいるな? おおよそのところは解っている。地下にいるだろう、数十尺の地下に!」「ハイ」といったがニッコリと笑い、「ああそれではあなた様は、鞘に封じたあの方の文を、お拾いなされたのでございますね。それでここへあの方を、助けにおいでなされたので。……そうですあれは十日ほど前に、空洞内の土牢から、海へ投げたものでございます」「空洞内の土牢だと※[#感嘆符疑問符、1-8-78] これ、なんのためにそんな所へ、あの観世を入れたのだ! お前では解らぬ主人を出せ! なんとかいったな九郎右衛門か、その九郎右衛門をここへ出せ!」造酒は威猛高《いたけだか》に怒号した。しかしお艶は恐れようともせず、水のように冷然と立っていた。






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