国枝史郎「南蛮秘話森右近丸」(01) (なんばんひわもりうこんまる)

国枝史郎「南蛮秘話森右近丸」(01)



「将軍義輝《よしてる》が弑《しい》された。三好長慶《ちょうけい》が殺された、松永弾正《だんじょう》も殺された。今は下克上の世の中だ。信長が義昭を将軍に立てた。しかし間もなく追って了《しま》った。その信長も弑されるだろう。恐ろしい下克上の世の中だ……明智光秀には反骨がある。羽柴秀吉は猿智慧に過ぎない。柴田勝家《かついえ》は思量に乏しい。世は容易に治まるまい……武田家は間もなく亡びるだろう。波多野秀治は滅亡した。尼子勝久は自刃した。上杉景勝《かげかつ》は兄を追った。荒木村重《むらしげ》は謀反した。法燈暗く石山城、本願寺も勢力を失うだろう。一向一揆も潰されるだろう、天台の座主《ざす》比叡山も、粉砕されるに相違ない。世は乱れる。世は乱れる! だが先《ま》ずそれも仕方がない、日本国内での争いだ。やがて、誰かが治めるだろう、恐ろしいのは外国《とつくに》だ! 恐ろしいのは異教徒だ! 憎むべきは吉利支丹《きりしたん》だ! ザビエル、ガゴー、フロエー、オルガンチノこれら切支丹の伴天連《ばてれん》共、教法に藉口《しゃこう》し耳目を眩し、人心を誘い邪法を用い、日本の国を覬覦《きゆ》している。唐寺が建った、南蛮寺が建った、それを許したのは信長だ! なぜ許したのだ! なぜ許したのだ! 危険だ、危険だ、非常に危険だ! 国威が落ちる、取り潰すがよい! 日本には日本の宗教がある、かんながらの道、神道だ! それを讃えろ、それを拝め!」
 ここは京都二条通、辻に佇んだ一人の女、凜々《りり》として説いている。年の頃は二十歳《はたち》ぐらい、その姿は巫女、胸に円鏡をかけている。頭髪《かみ》を束《つか》ねて背中に垂らし、手に白綿《しらゆう》を持っている。その容貌の美しさ、洵《まこと》に類稀である。眉長く顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》まで続き、澄み切った眼は凄いまでに輝き、しかも犯しがたい威厳がある。その眼は時々微笑する。嬰児のような愛らしさがある。高すぎる程高い鼻。男のそれのように、肉太である。口やや大きく唇薄く、そこから綻《ほころ》びる歯の白さ、象牙のような光がある。秀た額、角度《かど》立った頤、頬骨低く耳厚く、頸足《えりあし》長く肩丸く、身長《せい》の高さ五尺七八寸、囲繞《とりま》いた群集に抽出《ぬきんで》ている。垢付かぬ肌の清らかさは、手にも足にも充分現われ、神々しくさえ思われる。男性の体格に女性の美、それを加えた風采である。
 だが何という大胆なんだろう! 夕暮時とは云うものの、織田信長の管理している、京都の町の辻に立ち、その信長を攻撃し、その治世を詈《ののし》るとは!
 驚いているのは群集である。
 市女《いちめ》笠の女、指抜《さしぬき》の若者、武士、町人、公卿の子息、二十人近くも囲繞いていたが、いずれも茫然《ぼんやり》と口をあけ、息を詰めて聞き澄ましている。反対をする者もない、同意を表する者もない。
 不思議な巫女の放胆な言葉に、気を奪われているのである。
「唐寺の謎こそ奇怪である」巫女はまたもや云い出した。
「唐寺の謎を解《と》くものはないか! 唸《うな》っているのだ、恐ろしいものが! 日本の国は買われるだろう、日本の国は属国となろう。解くものはないか、南蛮寺《なんばんじ》の謎! いや恐らくあるだろう、解くがいい解くがいい! 幸福が来る、解いた者へは! だが受難も来るだろう! だが受難を避けてはならない! どんなものにも受難はある。受難を恐れては仕事は出来ない……ここに集まった人達よ!」
 ここで俄《にわか》に巫女の言葉は嘲笑うような調子になった。
「どんなに妾《わたくし》が説きましても、皆様方には解《わか》りますまい。解っているのは日本で数人、信長公にこの妾に、香具師《こうぐし》の頭に弁才坊、そんなものでございましょう。さあ其の中の何者が、最後に得を取りますやら、ちょっと興味がございます。オヤオヤオヤ」と巫女の調子はここで一層揶揄的になった。
「馬に念仏申しても、利目《ききめ》がなさそうでございます。そこでおさらばと致しましょう。もう日も大分《だいぶ》暮れて来た。塒《ねぐら》へ帰ったら夜になろう。ご免下され、ご免下され」
 群集を分けて不思議な巫女はスタスタ北の方へ歩き出した。
 と、その時一人の若武士《わかざむらい》が先刻《さっき》から群集の中にまじり、巫女の様子をうかがっていたが、思わず呟いたものである。
「洛外《らくがい》北山に住んでいて、時々洛中《らくちゅう》に現われては、我君を詈り時世を諷する、不思議な巫女があるという、困った噂は聞いていたが、ははあさてはこの女だな。よしよし後をつけ[#「つけ」に傍点]てみよう。場合によっては縛《から》め捕り、検断所の役人へ渡してやろう」
 そこで後を追っかけた。
 町を出外ずれると北野になる。大将軍から小北山、それから平野、衣笠山、その衣笠山まで来た時には、とっぷりと日も暮れてしまい、林の上に月が出た。巫女はズンズン歩いて行く。若武士もズンズン歩いて行く。





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