国枝史郎「南蛮秘話森右近丸」(12) (なんばんひわもりうこんまる)

国枝史郎「南蛮秘話森右近丸」(12)

12

 考え込んでいた右近丸が、ヒョイと牀几《しょうぎ》から立ち上り、室《へや》の真中へ出て行ったのは、やや経ってからの後の事であった。
 と右近丸は云い出した。
「第三の壁という言葉の意味、どうやら解《わか》ったようでございますよ。物の方角を現わすに、東西南北という言葉があります。そこでこの室《へや》の真中に立ち、東西南北を調べてみましょう。そうして東西南北を、一二三四に宛て嵌めてみましょう」ここで右近丸は片手を上げ、一方の壁を指さした。「そっちが東にあたります。で、そっちにあるその壁を、第一の壁といたしましょう」右近丸はグルリと振り返えり、反対の壁を指さした。「そっちが西にあたります。で、そっちにあるその壁を、第二の壁といたしましょう」ここで右近丸は身を翻えし、書棚のある壁を指さした。「そっちが南にあたります。で、そっちにあるその壁を、第三の壁といたしましょう。即《すなわ》ち」と云うと右近丸は、民弥へ向かって笑いかけた。「書棚の置いてある南側の壁が、第三の壁でございます」
 こう云われたので娘の民弥はなるほどとばかり頷いた。
「よいお考えでございますこと、大方《おおかた》その通りでございましょう。ではその壁の。……その書棚の……書棚の中の書物《ほん》のどこかに、唐寺の謎を解き明かせた、研究材料の有場所が、記されてあるかもしれません」
「さよう即ち秘密の鍵が、隠くされてあるかもしれません。どれ」と云うと右近丸は、ツカツカ書棚の前へ行き、一渡り書物を眺めてみた。が書物の数は非常に多く、いずれも整然と並べてあり、一々取り上げて調べていた日には、手数がかかって遣りきれそうもなかった。だがその中の一冊の書物が、特に右近丸の眼を引いた。何の変わったところもない、帙入《ちついれ》の書物ではあったけれど、その書物だけが奇妙にも、逆さに置かれてあるのであった。即ち裏表紙を上へ向けて、特に置かれてあるのであった。
「はてな?」と呟いた右近丸ツトその書物を取り上げたが、まず帙《ちつ》からスルリと抜き出し、それからパラパラと翻《めく》ってみた。と、どうだろう、何にも書いてない。全体がただの白紙なのである。――と思ったのは間違いで、書物の真中《まんなか》と思われる辺りに、次のような仮名文字が記されてあった。
[#ここから3字下げ]
「くぐつ、てんせい、しとう、きようだ」
[#ここで字下げ終わり]
 何のことだか解《わか》らない。どういう意味だか解らない。呪文のような文句である。
「おかしいなあ、何のことだろう?」
 文字を見詰めて右近丸は、しばらく熟慮したけれど、意味をとることは出来なかった。
 で、そのまま書物を閉じ、帙へ入れると書棚へ返し、それから改めて卓《たく》の上の、人形を取り上げて調べたが、奈良朝時代の風俗をした、貴女人形だというばかりで、これと云って変わったところもない。
 悉皆目算は外れたのである。
 失望をした右近丸は、佇んだまま考えている。
 同じように失望した娘の民弥は、これも佇んで考えている。
 唐寺の鐘の鳴る頃である。夕の祈りをする頃である。永い春の日も暮れかかってきた。
「明日また参るでございます」
 別れを告げた右近丸が、民弥の屋敷を立ち出でたのは、それから間もなくのことであった。心にかかるは謎語であった。
「『くぐつ、てんせい、しとう、きようだ』……何のことだろう? 何のことだろう?」
 南蛮寺の横を歩いて行く。
 森右近丸が帰ってしまうと、やっぱり民弥は寂しかった。そこで一人で牀几《しょうぎ》に腰かけ、窓から呆然《ぼんやり》と外を眺め、行末のことなどを考えた。
 窓外の春は酣《たけなわ》であった。桜はなかば散ってはいたが、山吹の花は咲きはじめていた。紫蘭《しらん》の花が咲いている。矢車の花が咲いている。九輪草《りんそう》[#ルビの「りんそう」は底本では「りんさう」]が咲いている。そこへ夕陽が射している。啼いているのは老鶯である。と、駒鳥の啼声もした。
 それらの物を蔽うようにして、高々と空に聳えているのは、南蛮寺の塔であった。夕陽を纏っているからであろう、塔の頂が光っている。
「これからどうしたらいいだろう?」ふと民弥は呟いた。「お父様は南蛮寺へお送りした。だからその方の心配はない。でもお父様がおいでなされない以上、誰も稼いでくれ手はない。妾《わたし》のお家は貧乏だ。食べるものにさえ事欠いている。どうしてこれから食べて行こう? 妾が町へ出て行って物乞いしなければならないかしら? でも妾は恥かしい。妾にはそんな事出来はしない。でも稼がなければ食べられない。お裁縫でもしようかしら? でも頼み手があるだろうか? ……南蛮寺の謎を解き明かせた、研究材料さえ目つかれば、安土に居られる信長卿が、高価にお買い取り下さると、右近丸様は仰有《おっしゃ》ったけれど、何時になったら研究材料が目付かるものやら見当がつかない。……これから毎日右近丸様が、お訪ね下さるとはいうけれど、生活《くらし》のことまでご相談は出来ない。ああどうしたらいいだろう?」
 民弥はこれからの生活について心を傷めているのであった。
 その民弥の苦しい心を、見抜いて現われて出たかのように、窓からヒョッコリ顔を出したのは、古道具買に身を※[#「にんべん+肖」、第4水準2-1-52]《やつ》した、香具師《やし》の親方猪右衛門《ししえもん》であった。
 ジロジロ室《へや》の中を覗いたが、声を張り上げると云ったものである。
「家財道具やお払い物、高く買います高く買います」諂《へつら》うように笑ったが「これはこれはお嬢様、綺麗な人形がございますな。お売り下さい買いましょう。小判一枚に青差一本、それで買うことに致しましょう」ここでヒョッコリとお辞儀をしたが、その眼では卓の上の人形を、じっと睨んでいるのであった。




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