国枝史郎「南蛮秘話森右近丸」(18) (なんばんひわもりうこんまる)

国枝史郎「南蛮秘話森右近丸」(18)

18

 地上に鏡が置いてある。坐っている女が覗いている。月光が鏡を照らしている。魚の横腹を思わせるような、仄かな煙った光芒が、その鏡から射している。
「いよいよ時期が近付いた。妾《わたし》には解《わか》る。妾には解る。唐寺の謎を孕んでいる、ある何物かが手許《てもと》へ来る。向こうから来るのだ、飛び込んで! こっちで呼びもしないのに、向こうから来るのだ、飛び込んで! 捕らえなければならない、捕らえなければならない!」
 独り言を云っている。だがどうしてその女には、そういうことが解るのだろう? そうして一体この女は、どういう身分の女なのだろう?
 年の頃は二十歳《はたち》ぐらい、頭髪《かみ》を束《つか》ねて背中へ垂らし、白の衣裳を纏っている。すなわち巫女の姿である。
 いつぞや京都二条通りで、時世を諷し、信長を譏り、森右近丸を飜弄した、あの時の巫女とそっくり[#「そっくり」に傍点]である。そっくり[#「そっくり」に傍点]どころかその女なのである。
 だがどうしてその女が、こんな寂しい森の奥に、一人で住《す》んでいるのだろう? まったく寂しい森である。巨木が矗々《すくすく》と聳えている。枝葉がこんもり[#「こんもり」に傍点]と繁っている。非常に大きな苔むした岩や、自然に倒れた腐木《くちき》などが、森のあちこちに転がっている。
 女の坐っている後方にあたって、一点の燈火《ともしび》がともっている。ぼっと[#「ぼっと」に傍点]その辺りが明るんで見える。何でもなかった、燈明《とうみょう》なのであった。そこに一宇《う》の社があり、そこの神殿に燈されている、それは一基の燈明なのであった。
 何という古風な社だろう! その様式は神明造《しんめいづくり》、千木《ちぎ》が左右に付いている。正面中央に階段がある。その階段を蔽うようにして、檜皮葺《ひはだぶき》の家根《やね》が下っている。すなわち平入《ひらいり》の様式である。社の大いさ三間二面、廻廊があって勾欄《こうらん》が付き、床が高く上っている我等が祖先大和民族の、最古の様式の社なのである。
 社に添って家がある。おおかた似たような様式である。やはり階段がついている。その正面に扉がある。出入口に相違ない。勾欄を巡らした廻廊が、家の周囲《まわり》を囲繞《とりま》いている。これは恐らく社務所なのだろう。
 月がそれらを照らしている。で、一切の建物が、紗布《しゃぎぬ》に包まれているようである。社を中心に空地がある。その空地の一所に、女は坐っているのであった。
 と、女は背後《うしろ》を向き、社務所へ向かって声をかけた。
「乳母《ばあや》々々、ちょっとおいで」
「はい御姫様」と云う声がした。社務所の中からしたのである。と、社務所の戸が開いて、一つの人影が現われた。廻廊を渡り階段を下り、月光の中へ現われたのを見れば、白髪を結んで肩へ垂らした、六十余りの老女であった。質素なみなり[#「みなり」に傍点]はしているが、上品で柔和で慈悲深そうな容貌、立派な素性を現わしている。
「宵も更けましてございます、もうお休みなさりませ」云い云い老女は近寄ったが「これはこれは唐姫《からひめ》様、またお占いでございますか」
 並んで鏡を覗き込んだ。
「ね」と巫女は――唐姫は、またもや鏡に見入ったが、「ね、人影がしかも四人、私達の住居《すまい》の処女造庭境へ、あんなにも走って来るではないか。荒らさせてはならない、入らせてはならない、追い払わなければならないのだが、先に立って来る二人の男女、あれだけは是非とも捕らえることにしよう」
「まあまあ左様でございますか」こうは云ったが老女には、鏡に映っているという、人間の姿など解《わか》らないと見え、不安らしく白髪の首を振った。「お姫様には神通力、お鏡を通して浮世の相を、ご覧になることが出来ましょうが、この浮木《うきぎ》はほんの凡人、何にも見えませんでございます。ほんとにそんな人達が、走って来るのでございましょうか?」
「ああそうとも走って来るよ、一人は若武士、一人は娘、後の二人は香具師らしいよ。卑しい服装《みなり》をしているからね」
 じっと鏡に見入ったが、尚も唐姫は云い続けた。
「それも普通の人達ではないよ、私達一同《みんな》が以前《まえまえ》から手に入れようと望んでいた、唐寺の謎を解き明かした、研究材料を持っている、そういう好都合の人達なのだよ」尚も熱心に見入ったが、「もう北野も通り過ぎた、大将軍まで走って来た、もう直ぐにも小北山へ来る。……ああもう[#「もう」に傍点]小北山も通り過ぎた、いよいよ平野へやって来た。……衣笠山! 衣笠山! 衣笠山の裾まで来た!」
 ほんとにどうしてそんなこと[#「そんなこと」に傍点]が、この唐姫には解るのだろう? 月光に反射して朦朧と、鏡は光っているばかりである。そんな人影など映《うつ》っていない。
 それにもかかわらず唐姫にだけに、そういうことが解るのなら、唐姫という女には、特別に違った感覚が、備わっているものと見なければならない。
 と、唐姫は立ち上った。
「もう間もなく遣って来よう! 私達の住居《すまい》の秘密境、処女造庭境の入口へ! 乳母!」と云ったが威厳がある。「お呼びお呼び、家来達を!」
「はい」と云うと老女の浮木は逞しい声で呼ばわった。「姫君お呼びでございますぞ! 方々お集りなさるよう!」
 声に応じて数十人の人影が森の四方から現われた。刳袴《くくりばかま》に一刀を帯び、織人烏帽子《えぼし》を額へ載せ、黒の頭巾で顔を包んだ、異形の風采ではあったけれど、これこの時代の庭師なのであった。
 唐姫の前方数間の手前で、膝折敷いて下坐をした。慇懃を極めた態度である。
 唐姫はスッと見廻したが、
「銅兵衛《どうべえ》、銅兵衛」と声をかけた。
「は」と答えると一人の庭師が坐ったままで辞儀をした。
「大儀ではあるが衆を率い、其方《そち》造庭境の入口へ参り、潜入者を堅く防ぐよう。……四郎太、四郎太!」と声をかけた。
「は」と答えたが一人の庭師が同じく坐ったまま一礼した。
「大儀ではあるが衆を率い、同じく造庭境の入口へ参り、香具師風の男女をひっ捕らえ、ここまで連れて参るよう」
「かしこまりましてございます」こう云ったのは銅兵衛《どうべえ》である。ヌッと立ったが仲間を見た。「いざ方々、おつづき下され!」
「では某《それがし》も」と四郎太も同じく仲間を見廻したが「拙者におつづきなさるよう」
 二派に別れた数十人の庭師、スタスタと歩くと森へ入り、すぐに姿を隠したが、あたかもこの頃猪右衛門と玄女が右近丸と民弥に追いかけられ、衣笠山の坂道を、上へ上へと上っていた。





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