国枝史郎「南蛮秘話森右近丸」(04) (なんばんひわもりうこんまる)

国枝史郎「南蛮秘話森右近丸」(04)



「ねえ民弥さん民弥さん、よい天気でございますねえ」
 こう云ったのは弁才坊で、自分の娘を呼びかけるのに、民弥さんとさん[#「さん」に傍点]の字を付けている。ひどく言葉が砕けている。
「はいはい本当によいお天気で、春らしい陽気になりました。こんな日にお出かけになりましたら、お貰いもたくさんありましょうに、弁才坊さん弁才坊さん、町へお出かけなさりませ」
 民弥は民弥でこんなことを云っている。自分の父親を呼びかけるのに、弁才坊さんと云っている。
 だがこいつ[#「こいつ」に傍点]は常時《いつも》なのである。真実の親子でありながら、お友達のような調子なのである。とても二人ながら剽軽《ひょうきん》なのである。
「お貰いに行くのも結構ですが、今日は二人で遊びましょう。色々の花が咲きました、桜に山吹に小手毬《こてまり》草に木瓜《ぼけ》に杏《すもも》に木蘭《もくらん》に、海棠《かいどう》の花も咲きました」こう云ったのは弁才坊。
「ほんとにほんとにこのお庭は、お花で一杯でございます。往来さえ見えない程で」こう云ったのは民弥である。
「今日はお花見を致しましょう。お酒を一口戴きたいもので」
「お合憎様でございます。一合の酒さえございません」民弥は笑って相手にしない。
「ははあ、左様で、ではお茶でも」
「お茶もお合憎様でございます。久しく切れて居りますので」
「おやおやそいつは困りました。では白湯《さゆ》なりと戴きましょう」
「差し上げたくはございますが、お湯を沸かす焚物《たきもの》がございません」民弥はやっぱり相手にしない。
 これにはどうやら弁才坊も少しばかり吃驚《びっくり》したらしい。
「ははあ焚物もございませんので」
「明日の朝いただく御飯さえ、実はないのでございます」
「随分貧乏でございますな」
「今に始まりは致しません。昔から貧乏でございます」
「これはいかにも御尤《ごもっとも》、昔から貧乏でございます」こうは云ったが弁才坊は意味ありそうに云い続けた。「だが大丈夫でございますよ。苦の後には楽が来る、明日《あした》にでもなると百万両が、ころげ込むかも知れません」
「はいはい左様でございますとも。百万両は愚かのこと、大名になれるかも知れません」
「そうなった日の暁《あかつき》には、この弁才坊城を築き、兵を財《たくわ》え武器を調《ととの》え威張って威張って威張ります」
「そうなった日の暁には、この民弥さんも輿《こし》に乗り、多くの侍女を従えて、都大路《おおじ》を打たせます」
「どうやらそういう栄華の日が、すぐ間近く迫ったようで」
「結構なことでございます」
「これまでは苦労を致しました」
「ほんとにお気の毒でございました」
「いえいえ私《わたし》より民弥さんの方が、一層お気の毒でございました」
「何の何のどう致しまして、弁才坊様あなたの方が、一層ご苦労なさいました」
「苦は楽の種、苦は楽の種、アッハハハ楽になったら、この三年間の苦しみが、笑い話になりましょう」
「そうしたいものでございます」
「きっとなります。きっとなります」
「お父様!」とここで娘の民弥は俄《にわか》に調子を改めたが、四辺《あたり》を憚った鋭い声で「遂げられたのでございましょうか? 年月重ねられたご研究が?」
「うむ」とこれも弁才坊、がぜん態度を一変したが「民弥、遂げたぞ、ようやくのことで!」
「で、その旨信長公へ?」
「うむ、昨日《きのう》云ってやった!」
「では追っつけお使者が参り?」
「そうだ、この私《わし》の研究材料をお買い上げ下さるに相違ない」
「ああそうなったら私達は……」
「昔の身分に返《かえ》れるのだ」
 ここで親子は沈黙し、その眼と眼とを見合せた。
 まだ梵鐘が鳴っている。
 讃美歌の声も聞こえている。
 庭の桜が夕風に連れ、ホロホロホロホロと散ってくる。
 ヌッと立った弁才坊は、「民弥!」とじっと[#「じっと」に傍点]娘を見た。「秘密の一端明かせてやろう、部屋へおいで、来るがよい」
 縁《えん》を上って行く後から、従《つ》いて行ったのは娘の民弥で、二人家の内へ隠《かく》れた時、老桜の陰からスルスルと忍び出た一人の人物があった。






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