国枝史郎「南蛮秘話森右近丸」(31) (なんばんひわもりうこんまる)

国枝史郎「南蛮秘話森右近丸」(31)

31

 だが唐姫《からひめ》が口をひらき、次のようなことを云い出したためその静けさは破られた。
「茨組と云う賊共は、父の旧家臣にございます。その頭の名は星影左門《ほしかげさもん》、以前から妾《わたくし》を妻にしようと、狙っていたものにございます。で、左門の目的は、民弥《たみや》殿でなくてこの妾《わたし》。で、民弥殿の御身上は、まず大丈夫と思われます。それはそれとして唐寺の謎は、半分解くことは出来ましたが、後の半分は解けませぬ。そこで貴郎《あなた》様にお願い致します。山を下り京都《みやこ》へ行き、南蛮寺へおいでになり、多聞兵衛殿の死骸を掘り出し、その左右の胸を調べ、唐寺の謎をお解き下さいまし」
 そこで右近丸は立ち上ったが、そのまま社務所から外へ出た。
 月のあきらかな山路を、京都の方へ下って行く。
 案内役は銅兵衛である。松火を持って先へ立った。
 造庭境の出口へ来た。
「これでお別れいたしましょう」
「ご苦労でござった。では御免」
 一人となった右近丸は、京都の方へ下って行く。
「酷《ひど》い目に逢えば逢ったものだ」心の中で考えた。「処女造庭境の連中まで、唐寺の謎を解こうものと、苦心していたとは知らなかったよ」
 いろいろのことを思い出した。
 玄女と猪右衛門とを追っかけて、処女造庭境へ入り込んだこと、そこの住民に捉えられたこと、今日迄監禁されたこと、しかし優待されたこと、玄女や猪右衛門の手許から、処女造庭境の連中が、例の人形を奪ったこと、そこで自分が申し出て、人形の眼を押させたこと、すると人形が叫んだこと、
「唐寺の謎は胎内の、肺臓の中に蔵してあろうぞ」と、
 そこで人形を断ち割って、その肺臓をしらべた処、一葉の紙のあったこと、そうしてその紙に次のような、数行の文字が書いてあったこと、
「多聞兵衛《たもんひょうえ》死せる場合、決して死骸を焼く可《べか》らず、左右の胸を調ぶ可《べ》きこと、一切の謎おのずから解けん」
「その肝心の多聞兵衛殿は、気の毒な変死をした上に、南蛮寺へ葬られてしまった。左右の胸を調べるとなると、なるほど土から掘り出さなければならない。大変な役目を引き受けたものだ」
 右近丸は都へ下って行く。
 都へ入ったのは間もなくであった。
 夜分は南蛮寺はとざされている。
 翌朝行かなければならなかった。
 そうして翌朝行った時、驚くべきことが発見された。
 死んだと思っていた多聞兵衛が、死なずに活きていたのである。
 のみならず娘の民弥までいた。
「おお民弥殿!」
「右近丸様!」
 抱き合ったのは云う迄もない。

 唐寺の謎は解かれたか? いや解くことは出来なかった。多聞兵衛が拒否したからで、こう兵衛は云ったそうである。
「わしは南蛮寺の教義について、とんでもない誤解をしていたよ。だが南蛮寺に数日いて、その誤解を知ることが出来た。よい教えだ、立派なものだ。そうしてオルガンチノ司僧をはじめ、寺中の人達も立派なものだ。で、わしは帰依をする。わしもこの宗旨の信者になる。で、秘密は明かされない」
 そうして絶対に多聞兵衛は、胸を見せなかったということである。いやいや見せないばかりではなく、その胸の上へ焼金をあて、火傷《やけど》をさせたということである。でそこに何かが書いてあったとしても、今は全く解《わか》らない。
 で南蛮寺の謎なるものは、遂に世人には知れなかったのである。
 で、唐姫も信長も、けっきょく南蛮寺から何物をも、奪い取ることが出来なかった。
 風船仕込みの毒薬は、強烈な催眠剤であったそうな。
 しかしそれにしても唐寺の謎とは、どういう性質のものなのであろう?
 天文《てんもん》十八年西班牙《スペイン》僧ザビエル、この者が日本へ渡来して、吉利支丹《きりしたん》宗教を拡めようとした。その際ザビエルは今日の価値《あたい》にして、五億円に近い黄金を、持参したということであり、その金ははたして布教一方に用いる、浄財と認めてよいだろうか? それとも宗教に名を藉《か》りて、日本侵略を心掛け、その工作に用いる金! そういう金ではあるまいか? これが一つの謎であった。
 更にその後《のち》京都の地に、南蛮寺、即ち唐寺が建てられ、その五億円の黄金が、その唐寺の内に秘蔵されたそうだが、唐寺の何処に秘蔵してあるか[#「唐寺の何処に秘蔵してあるか」に傍点]? これが二つ目の謎であった。
 そうしてこれら二つの謎を集め、総称して「唐寺の謎」と云い、その謎をひそかに解いた上、その黄金を手に入れようとして、織田信長や唐姫の徒や、香具師《やし》の猪右衛門や玄女たちが、苦心惨憺したのであった。
 弁才坊事多聞兵衛は、吉利支丹そのものを邪法と認め、五億円の黄金は日本侵略の金と信じ、その金の在り場所を発見し、それを信長に告げ知らせ、その功によって家を再興しよう――こう思って唐寺の附近に住み、唐寺へ絶えず出入し、その才智と胆略とで、その黄金の在り場所を探り、謎をすっかり解いたのであった。しかしその秘密を紙などへ書いては、盗まれる憂いがあるというので、唐寺から窃取した薬品を以て、自分の胸へ焼きつけて、身を以て秘密を保ったのであった。
 しかるに弁才坊は猿若によって、一時仮死の状態にされた。
 それを唐寺のオルガンチノ僧正が、唐寺へ引取り介抱し、その間吉利支丹宗旨なるものの、邪宗でないことを説明したので、弁才坊は翻然悟り、黄金の在場所を未来永劫、他人に知らせないようにしたのであった。
 その翌年の春が来た時、右近丸と民弥との結婚式が、織田信長の仲人の下に、安土城内において行なわれた。その客の中には改心をした猿若が、可愛らしいお小姓の姿をして、嬉しそうに雑っていた。栄達を嫌い隠遁をし、吉利支丹宗徒となった弁才坊も、この日は特に美々しく着飾って、出席したことは云う迄もない。
 洛中洛外にはびこっていたところの、姦悪の人買の連中を、信長が指揮して根絶やしにしたのは、それから間もなくのことであり、その中には桐兵衛一味がいて、いずれも捕らえられて殺された。
「処女造庭境」に蟠踞《ばんきょ》していた唐姫の一党はどうしたか?
 信長に楯突くの非を悟り、関東の方へ居を移し、広大な山間の地域を領し、女ながらも大豪族として、永く栄えたということである。




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