国枝史郎「南蛮秘話森右近丸」(10) (なんばんひわもりうこんまる)

国枝史郎「南蛮秘話森右近丸」(10)

10

 信長の居城安土の城、そこから船で乗り出したのは、昨日《きのう》の昼のことであった。琵琶湖を渡って大津へ着き、大津から京都へ入ったのは、昨日の夜のことであり、明けるを待って従者《ずさ》もつれず、一人でこうやって訪ねて来たのは、密命を持っているからであった。
 庭に佇むと右近丸はまず見廻したものである。
「春の花が妍《けん》を競っている。随分たくさん花木がある。いかにも風流児の住みそうな境地だ。だがそれにしてもこの屋敷は、何と荒れているのだろう。廃屋《あばらや》と云っても云い過ぎではない。世が世なら伊勢の一名族、北畠氏の傍流の主人《あるじ》、多門兵衛尉教之《たもんひょうえのじょうのりゆき》殿、その人の住まわれる屋敷だのに。……貧しい生活《くらし》をして居られると見える」
 深い感慨に耽ったようである。
 玄関とも云えない玄関へ立ち、「ご免下され」と声をかけた。
「はい」と女の声がして、現われたのは民弥《たみや》であった。
 恭しく一礼した右近丸。
「私ことは織田家の家臣、森右近丸と申す者、弁才坊殿にお目にかかりたく、まかりこしましてござります。何とぞお取次下さいますよう」
 粗末な衣裳は着ているが、又お化粧もしていないが、自然と備わった品位と美貌、案内に出たこの娘、稗女《はしため》などとは思われない、民弥という娘があるということだ、その娘ごに相違あるまい――こう思ったので右近丸は、こう丁寧に云い入れたのである。
「ようこそお越し下されました。織田様お使者おいでに就《つ》き、父に於きましても昨日《きのう》以来、お待ち致しましてござります。然《しか》るに……」
 と云うと娘の民弥は三指をついて端然と坐り、頸《うなじ》を低く垂れていたが、静かに顔を振り上げた。
「一夜の違い、残念にも、お目にかかれぬ身の上に、成り果てましてござります」
「ははあ」と云ったが右近丸には、どうやら意味が解《わか》らないらしい。「それは又何故でござりますな?」
「逝去《なくな》りましてござります」
「死《なく》なられた※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 誰が※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」と右近丸。
「父、多門兵衛尉」
「真実かな※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」一歩進んだ。
「真実! 昨夜! 弑《しい》せられ!」
「何!」と叫んだが右近丸は、心から吃驚《びっくり》したらしい。「弑せられたと仰有《おっしゃ》るか※[#感嘆符疑問符、1-8-78] そうして誰に※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 何者に※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「下手人不明にござります」
「ム――」と云ったが右近丸は思わず腕を組んでしまった。
 朝風に桜が散っている。老鶯が茂みで啼いている。
 それを背景にして玄関には、父を失い手頼《たよ》りのない、美しい民弥が頸垂《うなだ》れている。その前に右近丸が立っている。若くて凜々しい右近丸が。
 まさに一幅の絵巻物だ。
 さてその日から数日経った。
「物買いましょう、お払い物を買いましょう」
 こういう触声《ふれごえ》を立てながら、京を歩いている男があった。他ならぬ香具師《やし》の猪右衛門《ししえもん》である。古道具買《こどうぐか》いに身をやつし[#「やつし」に傍点]、ノサノサ歩いているのである。
 足を止めたのは南蛮寺の裏手、民弥の家の前であった。
「家財道具やお払い物、高く買います高く買います」一段と声を張り上げて、こう呼びながら眼を光らせ、民弥の家を覗き込んだ。





[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送