国枝史郎「柳営秘録かつえ蔵」(02) (りゅうえいひろくかつえぐら)

国枝史郎「柳営秘録かつえ蔵」(02)



 鬼小僧はギョッと驚いて、声のした方へ眼をやった。鶴髪《かくはつ》白髯《はくぜん》長身《ちょうしん》痩躯《そうく》、眼に不思議な光を宿し、唇に苦笑を漂わせた、神々しくもあれば凄くもある、一人の老人が立っていた。地に突いたは自然木の杖、その上へ両手を重ねて載《の》せ、その甲の上へ頤をもたせ[#「もたせ」に傍点]、及び腰をした様子には、一種の気高さと鬼気とがあった。
「小僧」と老人は教えるように云った。
「手品などとは勿体無い。それは『形学《けいがく》』というべきものだ。どこで学んだか知らないが、ある程度までは達している。しかしまだまだ至境には遠い。それに大道で商うとは、若いとはいえ不埒千万、しかし食うための商売《あきない》とあれば、強いて咎めるにもあたるまい。……とまれお前には見所がある。志があったら訪ねて来い。少し手を執って教えてやろう」
 老人はスッと背を延ばした。
「重巌に我卜居《ぼっきょ》す、鳥道人跡を絶つ、庭際何の得る所ぞ、白雲幽石を抱く……俺の住居《すまい》は雲州の庭だ」
 老人は飄然と立ち去った。つづいてバラバラと見物が散り、間もなく暮色が逼って来た。
 腕を組んだ鬼小僧、考え込まざるを得なかった。
「驚いたなあ」と嘆息した。
「ズバリと見抜いて了《しま》やアがった。全体どういう爺《おじい》だろう? 謎のような事を云やアがった。俺の住居は雲州の庭だ。からきしこれじゃア見当がつかねえ。雲州の庭? 雲州の庭? どうも見当がつかねえなあ。……」
「どうしたのだよ、え、鬼公! 変に茫然《ぼんやり》しているじゃアないか」
 背後《うしろ》で優しく呼ぶ声がした。
「さあ一緒に帰ろうよ」
「うん、お杉坊か、さあ帰ろう」
 こうは云ったが鬼小僧は、身動き一つしなかった。
 お杉は驚いてじっと見た。黒襟の衣装に赤前垂、麻形の帯を結んでいた。驚くばかりのその美貌、錦絵から抜け出した女形《おやま》のようだ。
 笠森お仙、公孫樹《いちょうのき》のお藤、これは安永の代表的美人、しかしもうそれは過去の女で、この時代ではこのお杉が、一枚看板となっていた。身分は水茶屋の養女であったが、その綽名は「赤前垂」……もう赤前垂のお杉と云えば、武士階級から町人階級、職人乞食隠亡まで、誰一人知らないものはなかった。そうしてお仙やお藤のように、詩人や墨客からも認められた。彼女の出ている一葉《いちは》茶屋、そのため客の絶え間がなかった。お杉はこの頃十七であった。
 同じ浅草の人気者同士、鬼小僧とお杉とは仲宜《なかよ》しであった。
「お杉坊」と鬼小僧は物憂そうに、
「今日は一人で帰ってくんな。俺ら偉いことにぶつかってな、考えなけりゃアならないんだよ」
「妾《わたし》も実はそうなのさ。それで相談をしたいんだがね」
「え、それじゃアお前もか? アッハハハ大丈夫だ。養母《おっか》さんと喧嘩したんだろう。お粂婆さんと来たひにゃア、骨までしゃぶろう[#「しゃぶろう」に傍点]っていう強欲だからな。構うものか呶鳴ってやりねえ。俺らも助太刀をしてえんだが、今日は駄目だ、考え事がある」
「お養母《かあ》さんと喧嘩も喧嘩だが、今度はそれが大変なのでね、妾ひょっとすると浅草へは、もう出ないかもしれないよ」
「や、こいつア驚いたなあ。実は俺らもそうなのだ。術を見破られてしまったんだからな。気恥しくって出られやしねえ」
「じゃア一緒には帰られないの」
 お杉は寂しそうな様子をした。肩を縮め首を垂れ、車坂の方へ帰って行った。
「いやに寂しい様子だなア」
 ふと鬼小僧はこう思ったが、もうその次の瞬間には、自分の問題へ立ち返っていた。
 日が暮れて月が出た。寒月蒼い境内には、黙然と考えている鬼小僧以外、人の姿は見られなかった。
 と、鬼小僧は突然云った。
「解《わか》った! 箆棒《べらぼう》! 何のことだ!」





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