国枝史郎「柳営秘録かつえ蔵」(04) (りゅうえいひろくかつえぐら)

国枝史郎「柳営秘録かつえ蔵」(04)



 その翌日から浅草は、二つの名物を失った。一つはお杉、一つは鬼小僧……どこへ行ったとも解《わか》らなかった。江戸の人達は落胆《がっかり》した。観音様への帰り路、美しいお杉の纖手から、茶を貰うことも出来なければ、胆の潰れる鬼小僧の手品で、驚かして貰うことも出来なくなった。
 鬼小僧はともかくも、お杉はどこへ行ったんだろう?
 八千石の大旗本、大久保主計《かずえ》の養女として、お杉は貰われて行ったのであった。
 大久保主計は安祥《あんしょう》旗本、将軍家斉《いえなり》のお気に入りであった。それが何かの失敗から、最近すっかり不首尾となった。そこで主計はどうがなして、昔の首尾に復《かえ》ろうとした。微行で浅草へ行った時、計らず赤前垂のお杉を見た。
「これは可《い》い物が目つかった。養女として屋敷へ入れ、二三カ月磨いたら、飛び付くような料物《しろもの》になろう。将軍家は好色漢、食指を動かすに相違ない。そこを目掛けて取り入ってやろう」
 で、早速家来をやり、養母お粂を説得させた。一生安楽に暮らせる程の、莫大な金をやろうという、大久保主計の申し出を、お粂が断わるはずがない。一も二もなく承知した。
 お杉にとっては夢のようで、何が何だか解らなかった。水茶屋の養女から旗本の養女、それも八千石の旗本であった。二万三万の小大名より、内輪はどんなに裕福だかしれない。そこの養女になったのであった。お附の女中が二人もあり、遊芸から行儀作法、みんな別々の師匠が来て、恐れ謹んで教授した。衣類といえば縮緬《ちりめん》お召。髪飾りといえば黄金珊瑚、家内こぞって三ッ指で、お嬢様お嬢様とたてまつる[#「たてまつる」に傍点]、ポーッと上気するばかりであった。
「妾《あたし》なんだか気味が悪い」
 これが彼女の本心であった。二月三月経つ中に、彼女は見違える程気高くなった。
 地上のあらゆる生物の中、人間ほど境遇に順応し、生活を変え得るものはない。で、お杉もこの頃では、全く旗本のお嬢様として、暮らして行くことが出来るようになった。
 そうして初恋にさえ捉えられた。
 主計の奥方の弟にあたる、旗本の次男力石三之丞《りきいしさんのじょう》、これが初恋の相手であった。三之丞は青年二十二歳、北辰一刀流の開祖たる、千葉周作の弟子であった。毎日のように三之丞は、主計方へ遊びに来た。その中に醸されたのであった。
 今こそ旗本のお嬢様ではあるが、元は盛り場の茶屋女、男の肌こそ知らなかったが、お杉は決して初心《うぶ》ではなかった。男の心を引き付けるコツは、遺憾ない迄に心得ていた。
 美貌は江戸で第一番、気品は旗本のお嬢様、それで心は茶屋女、これがお杉の本態であった。そういう女が初恋を得て、男へ通って行くのであった。どんな男の鉄石心でも、とろけ[#「とろけ」に傍点]ざるを得ないだろう。一方三之丞は情熱家、家庭の風儀が厳しかったので、悪所へ通ったことがない。どっちかと云えば剣道自慢、無骨者の方へ近かった。とは云え旗本の若殿だけに、風貌態度は打ち上り、殊には生来の美男であった。女の心を引き付けるに足りた。
 この恋成就しないはずがない。
 しかし初恋というものは、漸進的のものである。心の中では燃えていても、形へ現わすには時間《とき》が必要《い》る。そうして多くはその間に、邪魔が入るものである。そうして消えてしまうものである。しかし往々邪魔が入り、しかも恋心が消えない時には、一生を棒に振るような、悲劇の主人公となるものである。
 ある日主計と奥方とは、ひそひそ部屋で囁いていた。





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